阪神なんば線開業10周年記念旅 08

本日の話題の2本目は、「鉄タビ(臨時便)」から「阪神なんば線開業10周年記念旅」の第8回です。

さて、
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私たち3人は、鶴橋駅で撮影を続けている中で、撮影を続けておりました。さて、解説ですが、実は、二つ前の回で、お話した「724列車追突事故」のお話の続きをしていきます。
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さて、724列車大阪上本町駅行急行(奈良駅先発)の列車が、ブレーキシステムの過度な摩耗により、破壊された関係で、止まらなくなってしまった当該列車、乗客たちは何もしなかったのかというと、そうではなく、
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その困難に立ち向かった人たちがいました。先頭車両で、その言葉を聞き、危機感を持った国鉄職員がいたのです。当時浪速駅助役で会った藤村氏で、

「手ブレーキだ!! 手ブレーキをかけろ!!!」

と、叫んだのです。この手ブレーキというのは、
車輪のような、ブレーキ装置を指します。しかし、この装置は人の手を使って思いっきり回さないとブレーキが利かないというのが欠点とも、それを回していたのです。しかし、一人では力不足の感があります。そこで、高安工場(現在の高安検査場)回転機職務班の大倉庄太郎氏と、大阪府警察本部生野署所属の山本巡査が、藤村氏を助けるように、手ブレーキの回す補助をおこないます。
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しかし、列車の速度は落ちないと言う状況におかれておりました。その中で、藤村氏は、ほかの乗客はどうするのか、迷っていると感じた彼は、このような指示を出します。
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「窓ガラスを割れー!! 頭伏せろー!!!」

と、当時の鉄道省(国鉄が誕生するのは、昭和24年4月なので、それまでは鉄道省管轄下にありました)の路線では、整備が行き届いていない関係から、旅客列車はもとより貨物列車関係なく事故が多発したことから、乗客に対しての安全対策が強化されていた時期とも重なっていました。藤村氏本人にしても、「いつ、どこで、事故が起きるのかわからない」という状況の中を過ごしていたのは事実であり、常に死ぬかもしれないという恐怖とも戦っていたというわけです。

実は、この列車の事故にはターニングポイントがありました。それが、
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この瓢箪山駅です。実は、724列車の一つ前を走っていた準急(列車番号752)が、瓢箪山駅を通過しようとしたのですが、近鉄運行司令部から瓢箪山駅に通信(当時は電信だったそうです)が入ります。

≪724列車(急行)が石切を通過して暴走中! 至急通過する752列車(準急)を退避させよ!! 繰り返す!!! 至急退避させよ!!!≫
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この状況の深刻さを理解した駅員は、至急ポイント変更(上の画像の右側中ほどに当時は、ポイント切り替え装置があったと推測されます)の作業を行い、準急を待避線側(停車列車のために用意された専用レーン)に退避させました。ところが、これが先に出発した列車には、当然伝わっておりません。しかも、入線してきた準急は、724列車と同じく、のちにモ250型を名乗る車両で、木造構造の車両であり、追突してしまえば、724列車の乗客はおろか、準急に乗車していた乗客まで事故に巻き込まれ、死傷者数が100名以上になった可能性もあったのです。それを回避するために、駅員は必至です。
準急は、ゆっくり進入しますが、後ろで何が起きているのか、準急を運転している運転士にはわかりません。
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(頼むから、早く入ってくれ!!!!)

と、駅員は祈る気持ちで列車の入線を待ち、それを見届けるとすぐに、本線(この場合は通過列車のレーンのことを指します)にポイントを戻すと、通過列車を待ちます。それは、まさに一瞬でした。724列車は、猛スピードで瓢箪山駅を通過します。実はこの間にも、724列車の運転士は、事故を回避させようと必死になってもがきます。
一つは、ブレーキが利かないならモーターの出力を逆回転させる方法をとります。これは、逆転器を使用して、モーターを逆回転させ、ブレーキの代わりにすることです。ただ、この方法は、モーターの損傷を招き失敗すれば、セーフティ機能がなくなる危険あるのですが、それでも背に腹は代えられないことから、これを実行します。ところが、その効果が出ない状況に陥ります。実は架線から電気をとる装置パンタグラフが、外れてしまったのです。これをもとに戻そうと奮闘しますが、かえって危険が増すということから、周りから止められてしまう羽目になります。
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瓢箪山駅では、安心したのもつかの間、ある列車が出発してしまったことに気づきます。それが、大阪上本町駅に各駅停車していく奈良線の普通列車(列車番号774)です。この列車が、次の待避線を持つ駅に停車するには、2駅あります。河内花園駅と、若江岩田駅で、この駅は両方とも、待避線の設備を持っていません。
ましてや、瓢箪山駅を通過した列車の速度は、普通に走っているスピードよりも速く、一説では時速100キロは出ていたとされております。これでは、衝突は避けられそうにありません。
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(774は大丈夫だろうか…、間に合わなかったら覚悟しておこう…。)

そう考えたのも無理はありません。実は、774列車は724列車とは車体の材質が違い、鋼製ですがそれも問題で、鋼鉄製の車両に木造車両が衝突すると、木造車両が木っ端みじんになる可能性があります。
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困難な状況にある中で、全車両の窓ガラスは割り、「列車を止められる」と諦めていない大倉庄太郎氏は、そのまま、手ブレーキを必死に回しておりました。山本巡査は、状況からかんがみて、列車の衝突は避けられそうにないと判断、大倉庄太郎氏と山本巡査の間に会話があったのかどうかわかりません。ただ、山本巡査は最後に…。
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「もう間に合わないぞ!! 君は、床に座ったほうがいい!!!」

と声をかけたそうです。しかし、その声を無視して、彼は必死に、手ブレーキを回し続けました。そして午前7時51分(52分とも)、河内花園に停車中の774列車に追突(出発直前に衝突したともいわれております)、
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衝突時の衝撃で木造車体は粉砕されてしまい、49名の死者と、282名の負傷者を出す惨事となってしまったのです(ちなみにもう一人飛び降りて、亡くなった人も含めると死者数は50名に達したそうです)。
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先頭に乗って必死になって列車を止めようとした21歳(現在でいうと3年目、または新入社員か?)の運転士はあごの骨などを折る重傷を負います。そして、大倉庄太郎氏と山本秀二巡査は、山本巡査は足の骨を折るという九死に一生を得るという状況下で救助されます。しかし、隣の大倉庄太郎氏はブレーキハンドルを持ったまま絶命。二人の対応が生死を分ける結果となったのは否めません。さらに、巧みな指示をした藤村氏についても、重傷を負った可能性があります。
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では、どうしてこうなったのかです。

実は、724列車に使用されていた車両は、近鉄の母体となった企業で、当時使用されていた普通のブレーキと、セーフガードの役割を果たす真空管ブレーキが装備されていました。
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しかし、ブレーキの装置を構成する一つに、生ゴムを生成して作る装置が使われていたのです。当時は、プランテーションによる栽培方法が盛んだった東南アジア諸国からの輸入に頼っていた事情があり、太平洋戦争開戦時、この東南アジアは欧米諸国の植民地支配地域だったこともあって、連合軍側の宗主国は対禁輸にて、生産していない上、植民地支配地域に進攻した日本軍でも、そのゴムは大半が、日本国内で戦闘機の膠着車輪用に使用されるので、鉄道と呼ばれる公共交通機関には流れないという事態に直面したわけです。そのため、多くの鉄道で行われたのが、真空ブレーキシステムを外す措置を取ってしまうのです。
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それが、こんな事故を招きます。画像がないのですが、
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昭和24年12月に阪急今津線国道駅から走り出した普通列車今津駅行きが、止まらず、阪急今津線の車止めと阪神本線のポイントを破壊して、久寿川駅で停車した事故でも、ブレーキが利かなくなり、ホームを破壊したというのが近いかもしれません。この時は、死者もけが人も出ない奇跡的な事故でしたが、これも同様の理由で説明がつきます。
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実際に、事故を起こした車両も、同じ理由となるわけで、戦前の鉄道が犯した愚策が、各地で猛威を振るったわけです。それは、人員面にもおよび、724列車を運転していた運転士は、現在の大学3回生か、入社5年目(高卒)の若手社員に当たる21歳、ベテラン社員は戦争中に海外派兵されていたのですが、若い男女が運転士などで任務に当たる必要があったのです。人事面で判断が難しいことを、ベテラン社員なら決断できたことが、若い運転士にとっては、分からないことだらけだったと考えられます。そして、職人技が多い鉄道としては、ベテランの社員がいないことが、大きな支障となったのは否めません。
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結果的には、昭和23年3月31日の事故後、事故にあった車両たちのうち、モ200型と名乗る車両たちは、空気自動検知型ブレーキが採用されていなことから、奈良線から転属する形で、京都・橿原・生駒・王寺線に使用されることになり、長年運転をしてきた奈良線を離れるとともに、空気自動検知型ブレーキを搭載したモ600型は、奈良線にとどまります。
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その後、中型車両では輸送力が足りなくなるまで、活躍し続けます。
そして、
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奈良線の全線の大量輸送を軸とした8000系が、開発されていくことになります。その試作的な意味合いを込めた車両として900系が誕生したものの、それでも、
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トンネルの問題です。このトンネルの問題を何とかしないと…、のちに生まれてくる8000系たちの活躍の場が与えられません。それは、近鉄奈良線が開業して50年、小型車両が闊歩していた通勤圏の拡大という波が、この路線に押し寄せていきます。そこで、近鉄首脳陣は大改良工事を行うことになります。昭和39年に、生駒トンネルに変わる新生駒トンネルを貫通させることになります。
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これにかかわったのが、旧生駒トンネルを開削させた「大林組」だったわけで、新生駒トンネルを建設し、現在に至るわけです。

ということで、奈良線の発展について、続いては解説します。

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