名列車列伝特集 15-03 「九州男児の本懐ここにあり! 九州の幹線を結ぶ特急 03」

(N)さて、本日の話題の2本目は、「名列車列伝特集」の「有明」編の第3回ですが、今回は戦後初期の話に入ります。実は「有明」の名前は後半に少し出てきます。
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(Kt1641F)あの、今回は歴史的なお話もするのですよね。
(N)その通りです。今回のお話は、関門海峡トンネル開通のお話も含まれておりますが、それも含めて今回のお話の中身です。
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(Hs1208F)さてさて、今度はここから、どのように発展していくのでしょうか。それに、今回のお話では、九州の特急列車の礎が築かれることとなるのですよね。
(N)その通りです。まあ、ゲストのC11さん、それからもう一人のゲストのお方も、よろしくお願いいたします。
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(C11型)昭和20年8月15日に終戦を迎えた日本では、各地に大きな傷跡が残り、焼け野原となっていたうえ、広島と長崎には、当時は「新型爆弾」と呼ばれた原子力爆弾が投下された影響により、「10年は草木が生えない」とまで言われておりました。一方で、鉄道は戦前に主要都市のターミナルなどを空襲によって破壊されるなど、甚大な被害を受けておりました。その中で、九州を含め全国各地で、旅客列車の運転を再開させようとする動きが出てきました。さて、時計の針を昭和17年に戻して、九州管内の優等列車事情を順に追ってみていきます。昭和17年に関門海峡トンネルが開通してから、首都圏と関西圏から直通する旅客列車が増える代わりに、九州管内を発着する優等列車の待遇は悪くなっていきます。特に、首都圏からやってくる列車は、東京駅始発となる特急を主力とした列車が中心で、鹿児島本線を通して運転するのは、かつて3等特急として運転されていた「櫻」ですが、区間延長の対価として、急行に格下げされて運転されたのです。そして、そのほかに、東京駅を深夜に出発する呉線経由の鹿児島駅行急行が追加され、実質2本が首都圏と鹿児島本線を結ぶ列車として活躍を開始したのですが、その後の戦況の悪化で、昭和18年に元「櫻」が、熊本駅で折り返すこととなってしまい、さらに言えば昭和20年までに博多駅まで短縮させられる結果となってしまいました。また、九州管内では、急行自体の運転も取りやめと相成り、結果、鹿児島本線を走る優等列車がいない状況となってしまったのです。
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(Kth1104F)それで終戦を迎えたということですが、そこからどうしたのでしょうか?
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(C11型)終戦を経た九州を含めた日本の鉄道は、戦後復興へと舵を切ることになります。そのためには、どうしても旅客列車が必要となっておりました。そこで、早速ですが昭和21年に門司港駅と鹿児島駅を結ぶ急行が復活運転することになったのですが、車両不足などの事情があり、実際には運転されていなかったのです。
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(Hs1208F)今では、考えられない事態ですよね。
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(キハ55型)でも、実際にはそうだったのですよ。皆様お久しぶりです。九州のお話と聞きまして、再度登場となりました55系気動車のキハ55型です。第13弾の「くろしお」編でお世話になりました。それで、先ほどの話に戻りますが、この事情には、当時の日本の産業が大きく関わってきます。昭和20年代の日本では、エネルギー革命が起きる直前で、石炭が主流のエネルギーとして運用されておりました。そのため、北海道及び九州の北部にある筑豊地方では、まだまだ採掘されておりましたが、それでも輸送を賄えるほどの石炭は確保できなかったのです。おまけに、その質自体も悪かったことも影響したため、復活した列車が運転されないどころか、運転されていた急行までも廃止される混乱を見せておりました。実は、この話には当時の政治も大きく関わってきます。その点については、私では言葉が少ないので、ナレーターさんにお願いします。
(N)そうですか、分かりました。終戦直後の日本について、補足していきます。昭和20年8月15日の「ポツダム宣言」受諾によって、日本は連語国軍の占領下に入ることになりました。これには世界史の知識が少し必要となってきますが、その部分は割愛して日本のみの話に集中させます。「ポツダム宣言」を受諾した元海軍出身の鈴木貫太郎首相は、内閣を総辞職すると同時に、新たな内閣を皇族の東久邇宮稔彦親王を迎え、戦後政治の立て直しに移ります。しかし、この当時の最高権力組織は「GHQ(General of Head Quarter)」で、日本の政治の決定権を握っていた関係で、内閣には決定権はない状態でした。そのため、実質では「日本国憲法」もGHQに押し付けられたということを主張する人がいるのは、この関係があったからといわれております。その直後に、幣原喜重郎氏が内閣を組閣したのですが、その時にGHQは新憲法を施行したのですが、その直後に幣原喜重郎氏では行動ができなかったのです。そして、吉田茂氏の内閣で、「日本国憲法」は施行したのです。その吉田茂氏が取った政策として「傾斜生産経済政策」というものがあります。
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(C11型)実は、これが鉄道に関係してくるのですよ。
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(Kt1641F)つまり、鉄道の動力源と、私たちの体などの組織にも関係しているからですか?
(N)その通りで、この方法は鉱工業及び電力を安定的に供給させるため、投資をどんどん行い、生産性を高めることを行う形となりました。そのために、鉱工業を中心とした政策を展開していきました。ところが、それは一つのデメリットを生んでおりました。それは、続くインフレです。それは、ハイパーインフレでした。このため物々交換の経済となってしまったのです。そのため、鉄道は物々交換の列車として鉄道がしようされていったというわけです。
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(C11型)そうですよね。私たちも買い出し列車の担当をしていたことがありますしね。そして、日本全国で同じことが起きていたわけです。さて、場所を九州に戻しておきますが、それでは、昭和23年に優等列車を運転再開という運びとなったのです。それは、「日本国有鉄道法」という法律ができたことによるもので、昭和24年では東京駅始発となる急行が33・34列車が「きりしま」が登場。そして、その間に登場したのが門司港駅と熊本駅を結ぶ準急でした。これが「有明」と命名されるのは、昭和26年のことです。
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(Kth1104F)しかし、熊本駅行だったのですか、しかし、昭和26年から準急として活躍を開始したわけですね。しかし、それが何で鹿児島駅に向かう列車に当たったのか、その経過を見ていきましょうか。
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(キハ55型)実は、ここから九州の列車達が大きく変化を遂げる時代に差し掛かります。博多駅から日豊本線と豊肥本線を経由した急行が誕生したことが大きく、これがのちに紹介する「にちりん」と関係してきます。その後、気動車急行、気動車準急が活躍を開始するのですが、それは、この後にお話していきます。
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(Kt1641F)次回は、ようやく特急「有明」の登場の時代に入るのですが…。
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(キハ55型)すいません、実は、その前に紆余曲折がありますので、その辺も含めてお話していきます。ということで、それでは。

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