晩夏の加太への旅 08

本日の話題の2本目は、「鉄タビ(臨時便)」から「晩夏の加太への旅」の第8回ですが、加太からだいぶ離れていますよね(-_-;)。
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いったい、どこにいるのか…わからないお方に、少し説明します。実は私とS氏は、泉大津駅で、日露戦争の戦没捕虜墓地を訪ね、そのあと南海難波駅行✈空港急行で、羽衣駅にやってきたのですが、
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そこから、高師浜線という路線に入ります。実は、この場所、堺市ではなく行政区は高石市に当たります。
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そこから、わずか2駅の停車駅しか止まらない盲腸路線ですが、この路線の近くまで日露戦争当時に、捕虜収容所施設があったわけです。今の状況から想像できないほどのテントや、バラック小屋があったということのようなのです。
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そのため、駅舎も当時は豪華だったといわれております。しかし、この話は高師浜線ではなく、南海本線の浜寺駅のお話で、高師浜線はそのあとに誕生したリゾート路線でした。当時は、リゾート路線でしたが、現在は通勤路線として運転をしております。実は、この地域が浜寺公園の南の端であるため、そこに日露の首脳が刻んだ石碑が残っております。実は、そこを見てみたかったのですが、
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実は、これが開業当初のホームがありました。当時の形はこうなっていた感じですね。実は、この後、その石碑の場所がどこにあったのか、グーグルマップで検索をかけると、高師浜駅側であることが判明し、大急ぎで戻る羽目に、これでざっと30分は費やした感じです。
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日露戦争当時の浜寺公園は、いったいがまだ自然がある場所が選ばれていたとされており、テントを広げたり、バラック小屋を
建てられたとされております。実は、多い時で2万8000人の捕虜が収容されていたそうです。
ちなみに、「ロシア兵士は、日本に骨を埋める 02」の記事から拾うとすると、
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この当時は、4区画に2万8000人を収容させていました(1区画平均で7000人となるのですが)。しかし、海外の文化に触れたかった人たちも多く、外出許可が出されており、革なめしといった産業を伝えられていたわけです。日本の職人が学んだといった話も残っています。
ただ、問題もあったようで、外出に関しての記事では、浜寺収容所ではないのですが、名古屋と仙台などであった例として、ロシア兵捕虜が、外出許可を受けて繰り出し、歓楽街に出て遊郭(現在で言うとかなり多様化するが、風俗店をイメージされるとわかりやすくなります。一番近いのは「ヘルス」ということになりますが)通いをする捕虜まで出るなど、その点でかなり話題をさらっていったそうです。

ちなみに、この石碑が建てられたのは、平成12年のことで、日露戦争勃発から95年の歳月が流れております。ちなみに、現在の製菓メーカーである「モロゾフ」を立ち上げたモロゾフ兄弟のほか、戦争を語り継ぐ人たちがいなくなった中で、本年で終結から115年を迎える日露戦争、そして、北方領土問題を抱える日露関係は、まだ正常化への道を歩んでいません。
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こうしてみると、こんな身近に、海外と日本つなぐものがあるというのは、知っておくべきかもしれません。
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さて、高師浜線の高師浜駅から、今度は南海本線の浜寺公園駅に行くことになりました。
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実は、この旧駅舎は、観光案内所とカフェとして再生を果たすことになりました。
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そこから、堺市の堺駅まで南海難波駅行普通に乗りこみ、
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南海難波駅行✈空港急行に乗り換えて、大阪難波駅に戻ってきました。
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今回の旅は、いかがでしたでしょうか。日露戦争も関連していた場所があることも、人々の信仰及び、歴史的な部分を垣間見ることができたといえるのかもしれません。さて、次回の旅をお話するのですが、次回は、本編が「近鉄鉄道祭り」に費やされているのですが、こちらも、面白い旅となりました。
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日本の中にある「天竺」と「薬師」に通じる道の旅をご紹介いたします。次回の旅でまたお会いいたしましょう。それでは。

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