短い都人の旅 07

本日の話題の2本目は「鉄タビ(臨時便)」から、建仁寺の旅ですが、今回は、『晴天を衝け』の主人公、渋沢栄一(尚、司馬遼太郎氏は『最後の将軍』の中では「栄治郎」と書いている)の関係のお話です。

さて、現在の大河ドラマでは、渋沢栄一の少年時代から話が始まっておりますが、実は、この渋沢栄一は京都とも関係が深いことでも知られております。どういうことなのかといいますと、
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年代は前後しますが、元治元(1864)年に戻してお話します。ここから、徳川慶喜の人生に迫った司馬遼太郎氏の小説『最後の将軍』の一説を、以前紹介していますが、その続きにヒントが隠れております。改元前の文久3(1863)年に、旧暦正月5日、現在の暦に直すと、2月8日ぐらいのころだといわれております。実はその時期に、攘夷派の急先鋒だった久坂玄瑞は、慶喜に会おうとした描写が描かれており、巷では攘夷派が優位だった時期ですが、制限貿易の解除を行っていた江戸幕府日本にとっては、朝廷から「攘夷」を断行せよと催促されていた時期であるため、この時期はテロも横行しており、大変危険な状況の中を武州で聞いていたのが、渋沢栄治郎ですが、
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実は、京都に滞在していた親戚の尾高長七郎氏から連絡を受けており、その翌年に事態の急変を告げられたのです。実は、それと前後して、渋沢栄治郎こと渋沢栄一氏は、平岡円四郎氏とやり取りをしており、司馬遼太郎氏の『最後の将軍』では、このように書かれています。
「御府内の有志は、みな激昂しております。」
「中納言様(徳川慶喜の当時の官職名)にか」
平岡は聞いた。渋沢は、否といった。平岡らの側近に対してである。攘夷志士の間での慶喜信仰は根強く、慶喜が右のごとくのはずがない、おそらく近臣どもが因循の説をなし慶喜の明を曇らせているのであろうというのが定評である。
だとしたら、
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この時期に、渋沢栄一は京都に行っていないということでいいのかというと、決してそうではなく、文久3年旧暦10月26日に慶喜が江戸を断って京都に向かってから数日後のこと、後を追って、入京したのです。そのくだりを司馬遼太郎氏は、
慶喜が江戸を出発してからほどなく、平岡円四郎の留守宅へ渋沢栄治郎と”いとこ”の喜作が訪れている。
と簡単に記しているのですが、その間のくだりでは、攘夷運動のとん挫によって、目標を失った渋沢栄一が、平岡円四郎の家来として、京都に行くという描かれ方をしております。本当はどうだったのか…、ついでに、渋沢栄一が今後仕えていく慶喜の姿を、司馬遼太郎氏の『最後の将軍』で一部抜粋すると、
渋沢は、平岡から慶喜の日常を聞いた。日常何より好物は豚肉であるという。わざわざその肉を、横浜の開港場から取り寄せて賞味している人が、果たして神州の正気を養う攘夷家といえるであろうか。
「おどろいたか」
平岡は、この若者の見込み、慶喜や自分と同じ思想に強化しようとしているらしい。
「馬術が、ことにお好きである」
愛馬の飛電に洋鞍を置き、毎朝未明からに、三時間馬を責めるという。特に様式馬術に凝り、在京の幕府騎兵頭貴志大隅守を召して”こつ”を披露させると、たちまちにして師匠の貴志を凌駕された、という。
つまり、西洋に熟知している人物だったということがこのワンシーンからも読み取れます。
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さて、関係ない話が続きますが、実は、『晴天を衝け』の第1回オープニングシーンのモデルともいえるシーンを司馬遼太郎氏が書いているシーンがあったこともわかりました。それが、こちら。
あらかじめ平岡の口から慶喜まで渋沢のことを言上しておく。そのあと慶喜が毎朝調馬に出る時を狙い、「松ヶ崎で待ち受け、直訴するがごとく走り出よ」と平岡は言うのである。
(まるで太閤記だ)
と渋沢はおかしかったが、さっそく翌朝それを実行した。

ここからが、あの『晴天を衝け』のオープニングの描いた部分です。実は、松ヶ崎は京都市北区松ヶ崎のことを指しております。
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慶喜は毎朝下京から京の市中をつきぬけ、このあたりまで騎走してくるのである。その供は五十騎と二十人であった。騎士は幕府の官立軍事学校ともいうべき講武所剣術方の教授、助教をはじめ、機銃を肩にした幕府騎兵たちで、護衛隊としてはこれほど強力なものは、新撰組をのぞき、天下にいないであろうといわれた。渋沢は、いとこの喜作とともに未明から藪の中にひそみ、慶喜一行が来るのを待っていたが、やがて東天が白むとともに地を揺るがすような馬蹄のとどろきが聞こえ、渋沢らは走り出た。が、一行は駆けすぎた。
(御馬の疾いことよ)
二度しくじり、三度目はこの騎兵団の後を懸命に駈けた。
まさに、『晴天を衝け』のオープニングシーンが目に浮かぶかもしれませんね。ただ、ここで書かせていただいたのですが、司馬遼太郎氏は、渋沢栄一と慶喜の出会いは2度失敗しているということを、記しております。
幕末の時期に、慶喜に仕え始めた渋沢栄治郎改め、渋沢栄一は日本をどう変えるのか、それを模索していたといわれております。実際に、慶応3(1867)年に幕府の使節団として「パリ万博」に出ております。実際にこの体験が、こののちの日本経済界の父となる渋沢栄一を飛躍させる原動力となるわけです。

ということで、意外に解説が長くなってしまったので、次回記事も、渋沢栄一と京都の関係の第2弾を、お話します。ということで、それでは。

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