タイトル:「広州軍」北田一美 09

そんな中で、広州の動きが活発化していると言う情報を得ていたチベットでは、何が起きるのかを読むのに、時間をかけていた。
なぜなら、防衛線を張っている4州が、何をやろうとしているのかを、何を目的に作っているのか、それについて探ろうとしていた。そうした状況のさなかに、一美が来ると言ったのは、彼らにとって意外と言ってもよい事だった。まさに、珍客がチベットを訪れると言う事と、チベット側は受け取るに等しかったのである。
だから、その事に敏感に反応していた人物も多かったのである。どう言う意味かと言うと、今の『大波』の状況は、混乱の真っただ中にあり、その国内事情を理解しているのなら別かもしれないが、そう言った状況を把握していないのだとしたら、相手にすることはできないのである。
となれば、彼らを敵とみなし、その場で殺害すると言う凶行もやりかねない。だが、自分の考えている事は、チベットとて同じ事ではないだろうかと、一美は考えていた。なぜなら、今までの中華族の国家が、イスラム教国に乗っ取られてしまい。それによって、自分たちの宗教も傷つけられてしまった彼らにとっては、今こそ、中華族に全てを決起させなければならないと、自分たちの国が、イスラム教の餌食になってしまう上、イスラム教に改心した人材に因って、今までの風習さえも破壊されてしまうかもしれないという危機感もあって、このような事態を避ける上で、一美の訪問を歓迎するべきとの声もあった。
当時のチベットは、宗教自体も、二つに分かれていたのである。一は還俗してしまった宗教都市のチベット仏教、いわゆる、紅帽(サキャパ)派と呼ばれる集団と、還俗を脱して、戒律を厳格化の方向に行くべきと言う黄帽(ゲルグパ)派に分かれていた上、政治上でも、イスラム教国との関係を持続する派閥と、東洋においての雄である中華族に支援をするべきと言う派閥に分かれて相争っていたのである。
これは、多くのチベット国民をも巻き込んだ大論戦となっており、おそらくだが、国論を二分する事態になっている事もあって、現在どちらに振れるのかが分からない「振り子状態」となっていた。そんな中で、一美は危険を冒して、チベットに出向いていたのである。それが、どう言った事になるかは、一美にはまだ分からないものの、ある程度の予想をつけて臨んでいた。おそらく、自分に嫌疑がかけられるのではないかと言った恐怖感、そして、意外な展開もあるだろうと一美は考えていた。

その頃、ヨーロッパに近いオスマン・トルココロニー帝国の首都アンカラコロニーでも、今のチベットと似たような事が興っていた。
「イランイスラム帝国では、『大波』帝国の支援に回っているとの事ですが、それを遮断するように、グルジアコロニーなどの国々が、援助に反対するなど、混乱が起きているので、なかなか進まないとか…。」
と報告してきたのは、ネギと旅の途中に出会った商人アブドル・S・マハンであった。実は、彼の役職は外務課長と言う官職就いていた。2か月ほど見聞して、時には『紅巾』軍から、白い目で見られ、それから、このほかの地域では、色々と迷惑をかけながらも、『大波』の衰退ぶりを見つめてきたのである。
それにしても酷いものだと考えてしまうが、それは、地元の住民たちからの反発も受けながらも、調査報告をしていたのである。
「それはどう言う事か?」
その話に、重臣たちは耳を傾けた。
「それは、イランイスラム帝国にも、それに関して頭を痛めている所です。おそらくですが、彼らにも、多くの災難が降りかかるのではないでしょうか?」
その災難とは、一体何の事になるのか。
「それは、東の我国国境区域で起こっています。クルド独立運動と、それに合わせて、政教分離をうたう改革派の猛攻です。これが、厄介なのですが、どうも、イランイスラム帝国はそれを恐れているようです。内憂外患と言うのはこの事だと思えます。」
確かに、事実だと言えるだろう。しかし、相当抑え込まれていると言う話もあり、何が事実かはっきりしていない部分もある。
「とりあえず。今までの国交を断絶している中で考えれば、彼らは孤立無援の状態になっているのは、明らかである故に、我々はこの事を持って、イスラム連盟にイランイスラム帝国の脱退を求めよう。」
とオスマン帝国皇帝は、多くの家臣にその事を伝えたのである。この時の皇帝は、アブドラと言う名前だったのである。
「それで、外務通商関係に関する省庁に、その事を通達して、各地に通達を出すように!」
と、名を下していた。時にP.W.1610年7月21日、このオスマン帝国はイスラム連盟に対して、イランイスラム帝国の除名処分を提出し、その後、その結果は、トルコ国民にとって、思わぬものだった。
それは、トルコに対するイランイスラム帝国の宣戦布告であった。いわゆる「伊土戦争」の勃発であった。
イランとトルコの国境付近で、国境警備をしていた軍の発砲に端を発し、3年間の戦いが始まったのである。
その3年の間に、トルコの世論は、イランイスラム帝国を非難する論調に変わり、この状況が、一美たちに味方する事になるのであるが、イスラム系国家からも嫌われていたイランイスラム帝国は一体どう言った形で、世論を操作していたのか、それに関して、このような報道がある。これは、イランイスラム帝国が、イランイスラム共和国に代わった年に発表となった新聞記事である。
〈驚愕の事実 帝国の隠していた情報!
これは、我々にとっては、許しがたい事実でもあるが、帝国の情報に関する問題で、当時極秘文書として扱われていた情報源が、今日公開されるにいたった。その中には、大変な情報が含まれている可能性が高い。それは、何があっても、決して出す事の出来ない問題であると言える。例えば、『大波』に対する関税免除、それに戦闘に関するものなどなど、多くの機密情報が流出する事態に陥っている。だが、今まで、明国政府派それを糾弾してきたものの、それを帝国側は一切なかったと言って否定してきた。
しかし、今回の事が明らかになった以上。政府の追及はもはや免れないであろう。 【社会部:アリ・アズマール・ムハンマド】〉
これでも明らかなことだが、多くの人々が、何も情報を知らないままで過ごしていたのである。だから、この新聞記事は、イランの社会に衝撃を与えた。
それに、その後、イスラム社会の規範となる国は、イランからトルコの手に移ってしまい。帝国として対等に中華帝国政府と渡り合うのは、オスマン・トルココロニー帝国となって行くのである。
その事を知らなかったのは、誰であろう、そのオスマン帝国皇帝自身でもあった。だからと言っても、この事態をどのように考えてしまうのか、それは、その国民それぞれの立場が影響して来るとも言える。
それに、経済的な格差が広がっているイランイスラム帝国の状況を如何に考えるのか、それは、両国に常に存在している事であり、議論をし始める政治結社がたくさん出来上がっていたのであるからして、その関心の高さがうかがえる。
だからこそ、このおかしい状態をどう考えればよいのかを、必死に議論していたのかもしれない。少なくとも、知識人にはそれがあったのかもしれない。だが、最下層に当たる人々は、まだまだ、知らない情報がたくさんあったのである。

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