タイトル:「広州軍」北田一美 23

それに比べて、広州では、静に動いており、その動きから、何が起きても、動じない方がよいと、言う事であった。
「徐州では、汪叙経の率いる『紅巾』軍が、動きだし、濡須口を攻めようとの動きがあるそうです。それに対して、『大波』軍は、迎撃態勢を整えております。しかし、この状態を維持している間は攻め込まないと思います。」
と新次郎からの報告があった。つまり、攻め込むと見せかけて、緊張状態を起こし、そして警戒が緩んだすきに、奇襲攻撃を仕掛ける。
それが、汪叙経の頭の中にある作戦だろう。だからと言って、作戦が果たしてうまくいくのか、それについての疑問は残っている。
誰であろうと、『紅巾』軍の戦いに正義があるとかと言われると、それがどうか判断は難しい。『大波』を撃つ上では、正義と言えるが、一美を含める中華族からしてみれば、邪道な集団をかき集めたもので、正義や目的の一致などがあるのか疑問がある。
どう言う事かは、一美たちにも分かった。なぜなら、この国を如何にして行くかの道筋を、書いていなかった事が大きかった。それゆえ、いつかは数個の勢力に分裂し、さらに数十個の小さな勢力に分裂してしまうだろう。それゆえ、どう言う事を考えているか、それが分からない。
そうだと言うなら、どうして、彼らはこのような事を行うのか、それを考える一つの手がかりが、2700年前に起きていた。この手がかりから、考えられる事は何か、一美たちは見いだそうとしていた。
西暦1630年代から1644年まで14年間、李自成の率いる大順軍や、ホンタイジの率いる後金軍は、当時の明王朝を滅ぼし。後の清国軍が、国内で李自成の反乱軍を破った後、全土統一まで60年の年月を要した事が知られている。それには、清王朝に付いた漢民族の将軍たちの反乱や、その後のモンゴルとの戦争などに費やされた。ただ、国家目標を持って、彼らを指導してきたホンタイジと、息子の順治帝、ホンタイジから見れば孫にもあたる康熙帝のもとで、中国を如何にして治めるかを、わきまえていたと言ってよいだろう。
しかし、それがなかったら、おそらく、清の治世は短くなったに違いない。つまり、『この国をどのようにして豊かにいくのか』と言うテーマと真剣に向き合っていたから、1912年の清王朝の滅亡までの300年間統治できたのである。しかし、実際は1840年から60年代にわたっての動乱期、つまり、アヘン戦争、太平天国内乱、アロー戦争(第2次アヘン戦争)を経て、立憲君主制を取ろうともがいた時代が約70年も続くのである。
故に、そう言った時代の流れ、そして、多くの国家の思惑が、人々を切裂くのが、世の常であったと言えるだろう。その中で、国家をどう成り立たせるのか、『この国をどのようにして豊かにいくのか』と言うテーマに、真剣に向き合わないといけないと、一美は考えて話し合いを行っていたのだ。思想の統一とは、如何に一つの目標に行くのか、そして、その考え方が似た者同士が、集まろうとしている事こそ、これらの国家を動かす上で、重要な方針に変わると一美が考えていたからであった。
「それで、実際の暮らしは豊かにならないから、このような反乱を起こしたので、国家の事については考えていない。いわば、自分しか考えていないと言う事に尽きるのかもしれない。」
と一美は、静かに言った。
確かに、『紅巾』軍の主な考え方は、それに近い。だからこそ、こう言った事が、起きたとしても多くの人々の共感を得られないと言う事につながるのではないか。
「確かに、それは言えているでしょう。これからは、彼らが、どう言う事を目指していくのかを、見守らなければなりません。ただ、それを言うならばですが、彼らの考え方が、一定しない場合は分裂もあり得ると考えられます。」
と賦琿が指摘する。
確かに、考え方の相違があれば、分裂する事も十分に考えられる。
「だからと言って、それを悲観してはならないと思いますが、彼らにも、彼らなりの考えはありますし、その考えをどう生かしていくのか、それが彼らに課せられた事だと考えるべきです。」
とラフェリアがさらに指摘を加えている。つまり2人の言い分は、この状態を見守っていくのが良いのではと言うものだ。
一美も、2人の考えと同じで、今は動く事はしてはならない。それに、『大波』が何時、一美の率いる軍団に対して牙をむくか、それも、早いのか遅いのか、それが気になる所だった。
しかし、今は、どう言う事かどうか、その『大波』は、濡須口にくぎ付け状態になっている。だからと言って、南側で何をするか分からないと言うのが、一美たちの考えている事であった。
それより、これで良いのかと一美は、考え込んだが、今の一美の立場としては、護衛兵の訓練と将兵の訓練の委託を請け負っており、現在、穂積達が行っている防衛拠点構築事業は、4州の州政府に委託されたものである。だから、一美もこの考え方に、賛同していた。それゆえ、今回起きた濡須口に関する事態について、いち早く、対策を打つしかないと考えていた。

一方、濡須口では、商人たちが『紅巾』軍がここを攻撃する事を知っていた。濡須口こと濡須口コロニーは、南京コロニーから成都地域を通り、チベットに伸びる。地域の中間点に位置している。また、その地域と福州を結ぶ中間点である事から、交通の十字路と言われている。
そこを『紅巾』軍が攻めると言うのだから、商人にとってみれば、たまったものではない。だから、多くの商人は、このコロニーから避難していたのである。
だからと言って、避難してどこに逃げるのか、それを考える商人はいたわけであり、何も考えないで、走る事はしなかった。だから、どこに逃げるのかの当てを考えて、行動する事が、大切だと言えたのである。だから、逃げたとしても、近くの高台に避難するか、それとも、近くの都市に拠点を移すかのどちらかを選択するのであった。だから、この事態に関しては、濡須口をどうするかを考える人々が多かったのである。
その頃に、この事について、詳しく調べた資料が残っていた。その資料が言うには、
〈その一つに曰くには、
民、紅巾の徒を恐れる也。よって、民は、方々に逃げいる者の、一部は紅巾の徒に捕らうるか、大波の能吏に因り、保護さるるものあり、されど、それ以外の者は行方の知る由なく、遺骸となって帰って来た者もあり。
故に、民曰く、ここらは地獄となりて候と。〉
この資料は濡須口で、購読されていた書籍から取られたものだが、この口述は、実際の市民からの体験をもとにして、書かれたものである為に、信憑性が高いと言う事で、第1級資料として扱われていると言う。
だが、この口述資料が書かれたのは、濡須口合戦から約2年後の事であり、その印象がどれだけ濃かったのかを、示す資料として、重宝されている。
ただ、戦闘は、その激しさからか、思い出したくない人が多かったのかもしれない。それが、現実であった。それはともかく、商人たちは、周辺の都市に散らばって、『紅巾』軍が静かに通り過ぎるのを待っていた。
一般市民も、その後の事を考えて、避難を始めたが、『紅巾』軍の早さは、まさしく、「疾き事風の如く」と言うようなものであった。軍隊が衝突すると同時に、コロニーにいた一部の軍は、全てを守ろうと必死になって、彼らの行く手をふさぎきろうとしたのだが、『紅巾』軍の必死の行軍に、倒れた者も多かった。それを行う事、数日ほどたった8月20日、濡須口は『紅巾』軍の手に落ちたのである。

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