「明智惟任日向守の遺言状」#OP/1

天下人と言うと、思い浮かぶのが、「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」を上げる方が多い。所で、そのうち2人に関わっていた人物がいる。その人物は、明智光秀と言う人物である。
明智氏と言う氏族の元は、土岐氏と呼ばれる源氏の一族であった事にちなんでいる。彼の娘には、細川玉こと、細川ガラシャがいる事で知られている。
しかし、彼が本当に注目されるのは、天正10年と言う短い期間に刻まれた「本能寺の変」に関して記されている事が多い。
だが、彼の前半生は不明な部分が多く、土岐明智氏の嫡男だったとは考えにくいと言った説があり、庶子から明智氏を継いだという話もあったりする。
この頃、日本を訪れ、布教活動を行ったルイス・フロイスは『日本史』の中で、次のように記している。

(織田)信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもともとより高貴の出ではなく、信長の治世初期には、公方様(ここでは足利義昭の事を指す)の邸の一貴人兵部太輔(朝倉義景か)と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さに因り、信長の寵愛を受ける事となり、主君とその恩恵を利する所をわきまえていた。田内に会って彼は余所者であり、外来(ルイスは、ここで譜代の家臣との区別を図るために、この言葉を使ったのだと考えられる)のみであったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大する為の不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
また、築城の事に造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなして板。彼は誰にもまして絶えず信長に贈与する事を怠らず、その親愛の上をえるためには、彼を喜ばせる事は万事につけて調べているほどであり、彼の思考や希望に関しては、いささかこれに逆らう事が無いよう心がけ、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその法師に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。(ルイス・フロイス著『日本史』第2部41章「明智が謀反に因り、信長、並びに後継者の息子を殺害し、天下に叛起を起こした次第」より)

これは、織田信長に何度もあっていたルイス・フロイスの視点であり、少し誇張気味に書いてあると、『検証本能寺の変』の著者である谷口克広氏は、述べている。
では、本当の所はどうだろうか、それをこれから、この小説で書いていきたい。

1. 秀吉との話
本能寺の変で信長を撃つ光秀の話は、少し前に当たる天正7(1579)年から話を始めるとしよう。この8年前に、光秀は西近江を、この年には丹波国を信長より賜っていて、その領内で、無難なく民政を行っていた。天正元(1573)年に小谷城を含む東近江を任されていた秀吉は、2人はライバルとしての関係にあったが、元来、2人とも身分が低いか、それとも余所者と言う立場から、成り上がってきていたので、どちらにしてもライバル関係だけでなく、御屋形様(信長の事)を支える志を持った同士として、打ち解けていた。
ある日の事、彼は秀吉と共に呼ばれて、控えで待つ事にしていた。
「筑前殿もお呼ばれしたのでございますか?」
サル顔でありながらもりりしい男、秀吉は、
「これは日向殿、わしも呼ばれたよ。何の事で呼び出されたのか、わしには分からにゃあて…。御無礼仕った。ついつい、下積みの時の方言が出てしもうたのでな。」
と分からないと言いながらも、何の事なのかを話そうとはしなかった。たぶん、光秀とて分かっている事かもしれない。
この天正年間の中で、当時の勢力図をみると、この時代の天下の情勢は大きく変化を遂げていた。この天正7年から遡る事、5年前の天正3年に、長篠設楽ヶ原会戦で、武田氏は衰弱し、上杉家は天正6年に、上杉謙信(輝虎)が病没、北条派(上杉景虎)と長尾派(上杉景勝)に分かれて対立し、騒乱が起きたと言うのである(御館の乱)。
それに、この近くに巨大と言える敵は、一つに、中国の雄毛利家、関東の巨木後北条家、それから、四国の鯨長宗我部家、九州の大天使大友家、南九州の火山島津家、東国の独眼竜伊達家ぐらいとなっている。
ついでに、東は、徳川家康が遠江(浜松)に本拠を構えている為に、東には勢力を伸ばす事はできない。故に、目前にある敵は、毛利しかいないと言うのである。
武田軍は衰弱しているのは分かっているのだが、まだまだ、侮れない相手である為、迂闊に手をつけるわけにはいかなかった。と言う事で、多くの部分で彼は播磨方面から、西国の但馬、美作、因幡、備前に的を絞り、最終的には毛利を支配下に置こうと信長は考えているみたいである。
「おそらくですが筑前殿、それがしも、薄々だが、御屋形様は毛利を撃とうとしている為に、呼んだのだと思われますが、筑前殿は?」
振られて、秀吉は、
「そうじゃ、さすが日向殿も、察しておられるか…。だが、毛利は、一筋縄ではいきそうにない。」
と悩みのような一言を、口に出した。
「つまり、あの『三本の矢』の事でござりますか?」
光秀は、ある言葉遊びのような言葉を離してみた。『三本の矢』とは、毛利家の家紋と言える三本矢になぞらえて、兄弟の絆を大切にせよと言う戒めの言葉を、元就が掛けた事に由来する。
その『三本』とは、毛利家当主輝元、吉川元治、小早川隆景の3人である。天正10年以降に秀吉は、この3名によって率いられた毛利連合軍とたたかう事になるが、まだこの時は、其の3人は名前だけでしか知らない相手であった。むろん、光秀もその人物が何者かは聞いているが、その人となり、つまり、人物については、何も知らないのであった。
「その中で、吉川元治殿が年長らしく、よく輝元殿を助けておられる。これは強敵だと、聞いておるから、それも考えての事だろう。」
秀吉は、そのとこで呼び出されたのだと、考えていたのである。

それにしても、どうだろうか、信長は毛利攻めの何を、申し渡されるのか、
「オウ、筑前に、日向か、まっておったぞ、今日はなぜお主たちを呼んだのか、それは、分かっておるだろう。」
信長は、その様に陽気な感じではなく、何か圧迫感のある声色で話しかけていた。
「御屋形様、毛利の事ですか?」
秀吉の一言で、信長は的を射たと言う顔をしていた。
「そうじゃ、筑前は先を読むのう。しかし、毛利はどうも本願寺に兵糧を送っており、その兵糧を止めようとしたのだが、あの村上水軍の強さを思い知らされてから、迂闊に手が出せなくなっておる。」
と言って、一息入れてから、
「それゆえ、この場に2人を呼んだのじゃ。それで、2人に役割を与えようと思う。まず、筑前は山陽道(京都から、高槻を経て大阪の淀川区から神戸、姫路、岡山に抜けるルート)の毛利軍の拠点に攻撃をかける事、それに対して、日向は、山陰道(京都から鳥取を経て倉吉に抜けるルート)の拠点に攻撃をかける事になる。なぜかと言えば、まず、山陰に近いのは日向の方で、そちにそのことを任せようと思ったのじゃ。ただ、今の丹波の地は、そのままにしておく。じゃが、そなたは、確か長宗我部の交渉に就いているのじゃが、長宗我部達は、土佐のみならず、四国の統一まで言ってきた。それは、そなたにとっても不本意な、事態になってしまったが、それは、どうしても譲れない一線になってしまったのじゃ。これは土佐の長宗我部二も非はあるが…、わしも三好を生かす為に取らねばならない措置となったのじゃ。」
光秀は、少し顔を険しくした。斎藤利三を交渉役に立てて、長宗我部と交渉を行っていた光秀に、突如、下された信長の命令は、それに真っ向から反するものだったのである。もともと、長宗我部勢力に四国地方を任せて、毛利に専念すると言う構図を造ろうとしていた信長だった。その為に、その交渉役に光秀が就任したのである。だが、三好氏が配下に入った為に、その情勢が一変し、長宗我部に土佐と阿波南西部の領有以外の地域は認めないと言う政治的な決断を下したのである。
「その点については、申し訳なく思っておるが、儂自身も、この三好の扱いに悩んだのじゃ。」
そして、この決断を下したのである。それに光秀は反発していた。しかし、それに関して、信長は、
「日向! これは、わしもできれば、致したくない事じゃ! じゃが、しかし、これ以上、長宗我部の勢力が大きくなられてはならないと、三好の者どもが言ってきおったのだ! 儂とて、このような決定は、できればそなたにはやらせたくはない! だが、やらねばならぬ! 上意じゃ!!!」
と言い返して、光秀を黙らせた。
それ以来、この一線について、2人の考え方は対立していたのは明白だったのである。対して、秀吉は、着実に出世街道を進んでいたが、其の一点について、長宗我部を生かしてもよいのではと考えていた。信長は、長宗我部を潰そうとしていたのである。
それはどう言う事かと言うと、この当時の情勢から、三好氏を排除しようとしていた長宗我部氏が反発していたのである。

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