プロローグ

今から100年も前のこと、世界は食うか食われるかが常識だった時代。
誠に小さな国が、いや、小さかったから国家を守れたのかもしれないと思っている人もいるだろうが。100年前の奇蹟こそ、この国の本当の姿だったのかもしれない。
まさに、嘉永6年の黒船来航から明治維新をへて、わずか30年もたたないうちに、「眠れる獅子」と当時恐れられた大国清に快勝と言うよりも、辛勝したのが明治28年の事である。
しかし、この清と当時の李朝をめぐって大国ロシアが、日本と戦争をするといった事になろうとは、戦勝気分にわく国民には思いもよらない事であった。
それから、7年後の明治35年、日本の運命を開く事になる日英同盟が結ばれた。この時、日本はロシアとの全目対決の覚悟をしたのだと、今の人々は思うかもしれない。
今回のこの小説は、明治35年から、ポーツマス条約の結ばれる明治38年までを、小説仕立てであるが、書いてみようと思う。

嘉永6年の衝撃は、当時の人々の記憶に残った事件の一つであった。元々、日本はそれまで江戸幕府の行っている貿易政策により、国を閉ざしていた。実は、日本を含む東洋諸国は、当時の日本と同様、特定の国家に、貿易をおこなう事が、この国家のステータスとして、世間に通った時代でもあった。
それに風穴を開けたのが、イギリスである。嘉永6年から遡ること13年前の天保年間の事である。正確には天保11年、日本の運命を変えた戦争が起きた。
それは…、アヘンを媒介とした「アヘン戦争」であった。この戦争は、2段構えの戦争であった。

これが、日本はもとより東アジア諸国にも衝撃を与えたのである。だからと言って、右往左往する事ではなかった。軍事的に大差がある東洋と西洋、これが50年後の奇蹟を生む力となったのである。
日本は名将となる西郷吉之助隆盛、大久保正助利光、木戸小五郎孝允達が、討幕軍を率いて日本を変えたのは、30年前のことである。
しかし、嘉永3年の時に、20代そこそこだった彼らは、明治10年代に至るまで亡くなってしまうのである。その時10代前半、10代後半だった人材が多い。その人材の多くは、明治政権の中枢にいるのであった。
まず、薩摩から黒田忠太郎清隆、松方金次郎正義、西徳次郎、西郷龍助従道、長州では、井上門多馨、山縣狂介有朋、伊藤俊介博文、桂太郎清澄、青木団七周蔵等がいるのである。

明治35年から明治38年の4年の間、これらの人々が何を考え、何を志したのか、それがこれから4年間にもわたる日英同盟から日露戦争への流れをどう考えていたのかを、ここに記したい。