震災から乗り越えた人々 1 三陸大津波乃事例

今回お話しますのは、明治時代の東北地方を突如襲った大津波です。今回のテーマは、2つあります。
1つは、その津波がいかに巨大だったのか。2つは、その当時どう対処したのかについてです。
 
まず、三陸地方に押し寄せた津波は、本年の3月11日に発生した東日本大震災での津波に襲われた津波の高さが、40mほどに達していた所があり、その被害の葉想定をはるかに超えました。
所で、今回ご紹介する三陸大津波と言うのも、震源地などは似た地域にあったのですが、東日本大震災と比べて、震度は現在に換算して2ないし3と、比較的小さいものでした。
しかし、その地震の規模とは裏腹に、わずか30分で、岩手県沿岸に大津波が襲来すると言う、想定を覆した規模の津波に見舞われたと言うのです。記録によれば、死者及び行方不明者は2万2千人に達したとされているのです。
これには、2つの理由があり、1つは津波に襲われた地域の特徴と、もう1つは、日時が関係しておりました。
2つ目から、最初に話を始めますと、この津波に襲われた年は、明治29(1896)年の事です。その前年に日清戦争が日本の勝利で幕を閉じたのは、ご存知の方も多いでしょう。その帰還兵たちが故郷に戻り戦勝祝いと、その襲われた日にちが6月15日で、旧暦の端午の節句と言う偶然が重なり、祝いの席が、所構わず繰り広げられていたと言う事が、被害を大きくしてしまった一つに挙げられます。
また、三陸地方は、入りくねった海岸線、いわゆるリアス式海岸が特徴としてあったことも、被害を大きくしてしまった原因の一つとされております。
 
その時、どういった対応をその当時、救助したある人の記録から見て見ます。現在の釜石市の中核とされた釜石町の郵便局員だった菊池新之助さん(後に釜石町の助役になられた方です)は、午後8時ごろのこと、轟音に驚いた新之助さんは、局長とともににかにかけのぼり、あたりの様子を2階に上がり、その様子を見てみました。
すると、黒いものが流れてきたのに驚き、掬いあげてみれば、何と女性が…。そのあとに、救助して言った人達を2階に搬送し、70人の命が助かったそうです。うち20人が銭湯からの湯あがりないし、風呂に入ったままの人たちだったそうです。一夜明けた6月16日、高台を除く釜石町一帯が全滅に近い状態だったと書かれているそうです。
そのあと、鉱山の事務所を借りて、通信(モールス信号)を開始、専用のテープを使わず、耳で音を聞き取って書きとめたそうです(注釈:翌年となる明治30年には、電子技師の養成は耳による聴取を重点的に、教育させている)。
もう一人は、釜石警察署の所長山口良五郎さんのケースです。彼は、実際に警察署を移転する問題で、有志の方の自宅を訪問しているときに、この事態に遭遇し、一旦意識を失いかけて、目を覚ました後、一人のおばあさんを救出し、自宅に戻ってみて家族も無事だったようですが、この後、現状報告と、食料の確保、人員の伝達や遺体の収容におわれたと記されております。
 
続いて、政治家はどう対応したのかと言うと、大津波の発生直後とも言うべき16日に、盛岡の岩手県県庁に打電された後、陸軍第2師団(仙台)工兵部隊が現地で、救助捜索活動を行っているうえ、政治家では、板垣退助が関西出張から、急遽被災地に飛び復興状況の視察を行っています。それに、多くの義捐金等が送られ、これにより復興したと言う事です。
 
つまり、地域復興を第一優先とした迅速な対応が光った三陸大津波乃事例は、今の震災と似た部分が多く、復旧に向けてのプロセスに近いものだと、私は考えてしまいます。多くの人がたちあがってきた事に、焦点を当ててみても良いのではないでしょうか。