震災から乗り越えた人々 2 安政東南海地震の例

本日連載2回目となった話ですが、先日は「三陸大津波」の事例を、紹介しました。本日は、安政東南海地震を例に、考えてみようと思います。
 
「三陸大津波」から遡ること42年前、幕末期の日本を襲ったこの災害、今回のテーマは、自治体のトップがどのような判断をしたのかに注目してみます。
そこで、ご紹介するお方は、林鶴梁さんと言うお方です。この方は、黒船来航と同じ年である嘉永6(1853)年に、遠州中泉(磐田市一帯を指します)の代官になって、2年目にこの災害を経験したのです。
今回も2側面から見てみます。1点目は、その被害がどこまで広がったのか、それと2点目は鶴梁さんがどのようにして、指令を出して領民たちを復興に導いたのかです。
 
まず、その当時の被害は、東海道を一帯を襲ったこの地震は、現在のマグニチュード測定で8.4、プレート級巨大地震とされており、今回の震災クラスに近い値を示しました(実際のエネルギー量―地震によって生みだされたエネルギー量は今回の震災の360分の1になる。ちなみに、三陸大津波の30分の1となっている)。さらに言えば、この3日後に、安政南海沖地震が発生(マグニチュードは偶然と言えるが、8.4で、このエピソードについては3で)、沿岸地域は大混乱に陥りました。
話を戻しますと、この地震によって起きた津波が、東海地方はおろか、江戸(現在の東京{実はこの地震発生の翌年に、安政江戸地震が発生している})にも被害を与え、買占めによる物価上昇を抑えるための、買占め禁止措置の町触れ(現在で言う条例に近い)が出されるありさま、大津波が襲った東海地方での死者は1万人に上り、家屋8300戸の被害を出す結果でした。
鶴梁さんの収めている地域は、遠江地方―現在の浜松市等を中心とする静岡県西部と三河地方―岡崎市や、豊橋市を中心とする愛知県東部が中心、鶴梁さんがまじめな性格だったからか、管内の巡察を良く行い、領民の話を熱心に聞く、熱血地方官だったようです。その彼の収めている地域の被害は、袋井宿が本陣を含め200軒の家屋が被災(倒壊と火災を合わせた数で)、全体的には倒壊と流出が3万5千軒と火災で6千軒が被災するという被害となったのです。
では、途方行政官だった鶴梁さんは、どのようにしてのりきったのかですが、それは2つです。1つ目は、領民に対する炊き出し行為に、被災見舞金などの出し方。2つ目は、各村の被害状況の把握です。
 
1つ目は、早速、住民に米を配り、100両(現在の価値で500万円{1両=5万円})を分け与えた事から始まりました。それから各村々に対しての被害状況を見ていき、実際に被災見舞い金を自らの決断で出していくなど、「おかみ」の指示など待っていられる状況ではないと分かったうえで判断した事です。
2つ目は、それに関して各地の被害状況などを把握し、これを地方の篤志家、つまり、有志達に呼びかけて義捐金を集めたと言う事だそうです。これによって、集まった義捐金は640両(現在の価値では3200万円に上ります)。
 
結局、鶴梁さんが行ったことは、国の決断よりも「自分たちの生活」を良くしていくにはどうするか、領民たちをどう支援するかと言う事であッたようです。それに、将来も考えてある対策も施しております。それは災害対応備蓄米、つまり救難物資の備蓄と言う行為です。これを鶴梁さん自身が、提言していると言う事です。
つまり、地方自治体の長として、領民などをいかにして守るのかを考えなければ、地震災害を乗り越えられないと言う意識があったのだと、私には思えてなりません。
 
つまり、自らの迅速な判断こそが、残された人々を救うと言う事になると言うのが、教訓として言えるかもしれません。
 
以上です。

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