タイトル:広州迎撃戦 19

どちらが、弓を引くか…、それが問題となっていた。だが、一美たちは、それ以外の道を探していた。つまりは、弁舌に長けた人材を登用しなければならない。
これから、そのような人物が、果たしているのかどうか、一美は考えていた。それより、大事な事を忘れているような…。ふと思い立つと、穂積に渡したあの手紙が気にかかっていた。そのころ穂積は…。
穂積自身は、韓半島から避難してきた人材の集まる隠し部屋のドアの前で、立っていた。どうすればよいのか、と考えこんでいた。なぜなら、前々から話していた事が、自分の為にしていた事だとは気付かなかっただけでなく、どのように、乗り切ればよいのか、人生の先輩たる彼らから、聞きたかったのである。
「どうされました?」
と声がして振り向くと、そこには、少し驚いた表情をしている韓恵恩がそこにいた。
「実は、お伝えしていない事がございまして、お訪ねしたのですが、ご都合が悪いのでしょうか、足が向かなくて…。」
それを聞き、恵恩は、
「何か、大事な事でも?」
と聞いた。穂積が述べる前に。
「とにかく、お入りになってください…。」
と、案内したのである。
「とりあえず。ここでは、聞き耳を立てられます。」
そう、聞き耳を立てられる事を、憂慮するほど、今の広州は患者などの立ち入りを厳しく制限しているが、それでも万が一という事があるので、商団の兵士だけでなく、一般市民も監視の目を光らせていたのである。いつ何時、どういう事態が待ち受けているのか、それを考えれば、結果的には、そういう事になるかもしれない。

なぜ、穂積がかくまっている宋朱蒙、崔秀万と会わなければならなかったのか、それを解くカギが、この当時の世界から見えてくる。これは、どう言う事か、英国では「大波」政府に対して、次のように勧告を行っている。

我国は、大波政府との貿易を一時停止し、輸入は一切行わない。ゆえに、このために、我々は、イスラムを支援する国家との交易、国交は今後停止する。

これをきっかけに、フランスコロニー王国を含めた数カ国がこれに賛成し、結果的にドイツを中心とする神聖ローマコロニー帝国、オーストリアハプスブルクコロニー帝国が中心としている「イスラム擁護派」と、英国とフランスコロニー王国の「反イスラム派」に分かれているのだが、実はここで注目しておきたいのは、北欧の動向であるが、ほとんどの北欧国家が、「反イスラム派」を支持、同時に、ロシアコロニー大公国が、北欧に同調したのである。
これによって、「イスラム擁護派」は窮地に立たされる事になる。この大きな変化の原因が、中央アジアで起きていた。
この年の10月ごろ、中央アジアの東側に位置するウイグル王国と南で隣接した楼蘭王国が、「大波」政権の間者集団によって、不満を持っていた亜人オーガ勢力と結びつき、二人の王女と王妃を人質にとられるという事件が起きる。
実は、この二人の王女と、王妃を一美が救出する事になるが、一美が捕らえられてから半年後の事であり、その出来事から二月後に、ウイグル王国によって占領されることになり、このウイグル王国によってP.W.2005年に共和国制に移り独立するまで、統治下に入る事になる。
その時の王女の一人こそ、ジャンヌ・グルノーブルで、後に、久留野女杏と改名した人物であった。また、もう一人はユーワと言う人物で、久留野優和と改名する。両人とも、一美のもとで保護され、女杏は1部隊を率いる武将として、昌都「エストール」コロニーの王女、レティシア・エストール、後に恵樹明礼手紫亜と改名する人物と共に、部隊を編成して一美たちと共に、戦線を駆け抜けていく。
一方、王妃であり二人の母親に当たるセリーヌ・グルノーブルも、保護されて一美たちのもとで、一人の武将として、礼手紫亜の母、カトリーヌと共に、部隊を編成していくのである。
そして、優和は、一美の軍師、ラフェリアの家臣ルヌメティア・ソル・ルクス・フェリシエルと共に部隊を編成して、5人とも、大波戦線を戦い抜く事になる。
一方でチベットの昌都「エストール」コロニー王国では、大波寄りの大臣ガザエル卿によって、クーデターが発生し、国王は幽閉されると言う事件が起きる。これに続き、王樹「ザクセン」コロニーでは、後にチベットコロニー地域を統合したザクセン王レニカ・フォン・ザクセンの母、アリア・フォン・ザクセンが、不治の病と言われるHIVによって倒れたと言われる事件が起きた。ただ、この一件は、何者かによる毒殺未遂の疑いが浮上しており、その真相解明をレニカ・フォン・ザクセンは指揮する事になる。そのために、今まで、妹としてかわいがっていたロリスと安多「後呉越」コロニーの王家嫡男孫涼鷲厳(孫家嫡男)との婚儀を延期するという事態に陥った。
このザクセン家が婚儀を延期した理由には二つの事が考えられる。一つは、隣国の王が直接命令を下したという疑いがあった為、二つは、国内の反体制勢力だけでなく、個人的な理由で王を排除すると言う事が働き、それが、婚儀に与える影響を極力避ける為とも言われている。
一目の理由は、この当時のチベットが、戦乱のさなかにあった為、国家が乱立し、王を名乗る領主たちが増えたという事が背景にある。もともとは地方領主だったのが、格を上げる為に王を名乗った。この時代は、「大波」が中華地域を統治して100年後に、チベットとの戦争に突入し、それによってチベットは辛うじて国難を脱したが、その後、多くの武将たちの自立が促され、最大で300か所の都市国家が形成され、それが一美たちの生きるP.W.1610年に至って、15か所に減ると言う大戦乱の時代にあった。そのために、チベットと貿易を行う商人たちにとって、「チベット王国」と言う国家と交易をする以外にも、選択肢はあったという事になる。
それだとしたら、「チベット王国」はどのあたりを支配下に置いていたのかという問題だが、それはラサの周辺地域と言う小さな区域を支配していたにすぎなかったのである。しかも、「チベット」王国と言うのも、名称にしか過ぎないものであり、事実上、チベットは内乱の状態にあったという事に他ならない。
ちなみに、一美の父武彦が、貿易を行っていたチベットは、そういったチベット国内勢力と貿易を行う事であり、タタールの考えていた「チベット王国」とは、ラサあたりを支配下に置く勢力と言う意味で使ったという事になる。
その現況を生み出したのが、「大波」であり、しいて言えばイスラム勢力そのものだったのである。
また、二つ目の理由では、国内にはザクセン家によって、滅ぼされた貴族、それから、個人的にはザクセン家の政治思想に相いれない勢力が、彼らを標的として革命を起こそうとする人物がおこしたテロだとする観点から、捜査が終了するまで、婚儀を見合わせるという考えも、レニカ・フォン・ザクセンの頭の中にはあったのであり、下した決断は正しかったという事になる。
その遠因が、イスラム勢力台頭にあって、それを欧州の一部が支持しているという構造、そして、政教分離を行っていない国家とは、国として付き合う事が出来ないという欧州先進国の判断が、穂積が二人の会談を決断した大きな理由だった。

その対抗策の構築として、多くの人々や国々が期待をしていたのが「中華帝国の復活」であった。そして、注目されたのが、北田一美たちがいた広州と言う事であった。そういった中で、穂積が宋朱蒙、崔秀万と会って自分の姉の行った事を、伝えたかったのである。
「どちら様でございましょうか?」
と朱蒙が声をかけると、
「朱蒙どの、穂積です。」
と穂積が答えた。恵恩が、先に入り、穂積がそのあとに続いた。朱蒙と秀万は、将棋を打つ手を止めて、向き直った。
「どうなされたのです穂積殿、顔がさえないように見えますが…。」
と秀万がきいてみた。
「おふた方に、お伝えしたき事がございまして、此処に参ったのですが、何からお伝えしてよいのやらと、迷っております。」
と穂積は、悩みを打ち明かした。
「それは、どう言う事でしょうか?」
と秀万が聞く。
「どんな話なのか、穂積さまがどうして御悩みになられておるのか、それをお聞きしましょう。」
と朱蒙が合図して、家臣たちを集めて話を聞いてみる事にした。そこで、穂積が話し始めたのは、一美が広州だけでなく、広州にいる朱蒙たちコリアンをも守るために、自ら投降をするという事、そして、天下の情勢を自分に託すという事、さらに、商業関係について穂積を中心に合議制にして、多くの意見を吸い上げることなどを話していた。
「そうですか…。一美様は、そういう事を…。」
朱蒙は、それ以上の言葉を継げなくなった。確かに、そう言われれば、だれだって閉口をする。しかし、彼らの場合は違った見方をしていた。
「それは、確かにそういえるかもしれません。しかし…。」
と話を始めたのは、この集団の中で最年長と言える田光袁であった。
「それは、一美様の意思ですが、ただ、広州だけでなく、広州のほか、広西、雲南、復讐も守るという事を意味しております。」
田光袁の話す事によると、一美が投降して自らを犠牲にする事により、広州の部隊だけでなく、福州や広西、雲南にいる軍勢力や、商人の持つ商団兵力に攻撃の自重を求めると同時に、その兵力を隠す事によって、『孫子』による「戦わずして勝つ」、つまり、兵力損失のリスクを無くすと言う事を立ってのけたのだと言う事につながるのではないかと、指摘したのである。
穂積は、その事を悟って、思わず涙がこぼれた。なぜそういう事に気付かなかったのか。自分が愚かで情けない。彼の心の中で、そう思うしかなかった。

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