今年で100年。

 本日の話題は、久々の「歴史もの」で、辛亥革命についてです。
 
実は、今年は中国の近代を揺るがした事件から100年の歳月が経ちました。それは、辛亥革命と呼ばれる事件です。
「アー、高校の歴史でそんな事を習ったなぁ」とつぶやく方もいるかもしれません。実は、この事件の中心的人物に、孫文と蒋介石、袁世凱の3名がいます。この3名の内、袁世凱は後に、歴史から姿を消し、孫文は革命半ばで癌によってお亡くなりになります。そして、昭和50(1975)年まで生きるのが、蒋介石と言う人物です。
 
その3名を中心に話を始めたいのですが、まず最初に、この革命の指導者的な立場として孫文と言う人物について焦点を当てます。
 
元々、医師から身を起こした孫文、ほとんどが本名で書かれておりますが、孫中山と言う字(渾名です)で言われる事が多いそうなので、ここからは、中山と言う読み方にします。
彼は、明治17(1884)年の清仏戦争から、清帝国政府の政策に関心を持つようになりました。実際に、清仏戦争から10年後に日清戦争に突入します。
日清戦争が終結し、下関講和条約が結ばれたのと時を同じくして、広州で武装蜂起を起こすのですが、日本に逃れることになります。
 
実際、日本では、日清戦争の終結とともに、「臥薪嘗胆」の時代に突入しました。つまり、三国干渉と同時に、日露戦争への10年の中を、中山は中国人という立場から、はっきりと見ていたと言う事になります。
 
その後、武装蜂起を度々起こしたのですが、それが成功もしないまま、明治44(1911)年を迎える事になります。その間の日露戦争を経て、日露戦争の日本勝利と時を同じくした明治38(1905)年に、中国同盟会を組織し、その党首となります。それから、6年の年月が過ぎ去ったのですが、その年の10月10日に革命が偶発的な武装蜂起から起こったのです。
 
その時、アメリカで過ごしていた中山は、故郷に引き返し、中華民国臨時政府総統、つまり、実質的なトップに上り詰めるのです。しかし、その結果は、大変なものとなりました。
もう一人の主役、袁世凱にトップの座を奪われてしまいます。さらに、国家内で軍閥の群雄割拠する状態に陥ります。これは、中華人民共和国が成立する昭和24(1949)年まで続くのです。その時、中山の姿はないのです。その理由は、彼の体を蝕んだ病によって、亡くなったのです。
 
では、袁世凱は一体どう言う立場に立ったのか。それについて、書いてみたいと思います。
以上です。
 

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