今年で100年第2段。

本日の話題も、「歴史もの」から辛亥革命の話についてです。今回は、第2回の袁世凱についてです。
 
孫文とは対照的に、力で抑えた袁世凱はどう言った人物だったのかについて、そして、辛亥革命ではどのような事を考えていたのか…について、ひも解いてみます。その試みとして、3点に分けて迫ってみようと思います。
1点目は、彼がどういう形で、国家のトップまで上り詰めたのか。2点目は日本の『対華21ヶ条』を飲む事になったのか、そして3点目は、本当に彼が目指した中国とはについてです。
 
では、1点目に、彼がどういう形で、国家のトップまで上り詰めたのかを見ていきます。そのために人物像を紹介しておきましょう。
元々、袁氏は王朝などで任命されるエリート官僚、軍人を輩出する家柄で、ここ500年の系譜で言うと、軍人の袁崇煥、その7世孫に当たると言われる袁世福(以下軍人)、他には政治家として袁枚がいることで知られております。
 
その彼の人生は、清朝官僚となることからスタートしますが、ここで、2回ほど科挙試験で不合格となります。当時の中国では、この科挙試験制度が遠く隋唐時代(6世紀)から盛んに行われ、元時代の中断期間(13~14世紀)を経て、清朝まで至っていたのです。もし、この国家試験と言える科挙に合格できなければ、別の道を探ると言う啓示として、試験を受けた受験生には突き付けられることになります。
ここで、彼はその才能を軍人と して見出そうと考え、当時有名な李鴻章(覚えている方が多いと思いますが、日清戦争で下関条約を締結するときの中国側全権代表が彼です)の門をたたき、当時の不安定な李朝(コリア)に赴きます。
実は、ここで李朝、日本、清の3国がせめぎ合う最前線に、身を置く事になります。その過程の中で、日本史、コリア史にかかわる重大な事件の当事者として関わる事になります。壬午事変(当時の『開明派』を襲撃した政治闘争事件)で清朝側の窓口役として関わり、閔妃(後、日清戦争後の明治28{1895}年に日本公使によって襲撃され殺害されます)の救出に成功。その2年後に発生した甲申政変では、軍をひきいて閔妃政権を救援したことが知られております。
その結果で、甲午農民戦争から発展する日清戦争で、清の敗北に終わり、その直後から陸軍の近代化を始めたのです。これは、日清戦争の当事者である日本や欧米から高い評価を受けます。
そして、義和団の乱(明治33{1900}年)には、自らの地域の騒乱の鎮圧をしたのですが、国家首脳部の暴走には加わることはなく、乗り切ります。
 
その後、李鴻章が明治34(1901)年に亡くなった後は、外交を担当する北洋大臣と直隷総督を兼任すると言う事になります。おもに、この半生で培われた政治手腕や、軍事手腕が彼を中国のトップとして押し上げる力になったと言う事は、言うまでもなく、その後の孫文との対抗する力を得たのでしょう。
その袁世凱について、明治44年までの流れを追っていくと、明治42(1909)年に宣統帝溥儀のおじに当たる醇親王により失脚、結果的にすべてをはぎ取られる形で無官となり、北京から逃れ、結果的にそのまま辛亥革命を迎える事になります。
しかし、そんな中、辛亥革命の勃発で、再び政治の表舞台に立った彼は、宣統帝の退位を迫り、結果的には清朝滅亡の立役者として、名を残すことになります。
 
では、2点目の日本の『対華21ヶ条』をなぜ飲む事になったのか、これには、第1次大戦が関係しています。第1次大戦の勃発した大正3(1914)年、中華民国は、中立を宣言しますが、実際には日本との交渉に乗り込む事になってしまいます。これは、ドイツに占領されていた青島に狙いを定めてきます。ちなみに青島には、日清戦争で激戦地となった威海衛が置かれている事で知られております。
そこを狙って、出兵したのです。その時の首相は、桂太郎(日露戦争と、韓国併合、関税自主権回復の時の首相)の後を受けた大隈重信です。その内閣が要求した条項こそ、『対華21ヶ条』でした。
さて、本人はどう思っていたのでしょうか。実際に彼は、この情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするのです。しかし、それを大正4(1915)年に了承する結果となりました。
つまり、本当のところは、受け入れられるものではないものでした。ただ、ある説によれば、「対華21ヶ条」そのものが、彼が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする見解もあるそうです。
これを、利用したという意図もどこかで見え隠れしていたのかもしれません。
 
では、最後に、彼は本当に目指していた中国とは何か、それについてですが、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要だと彼は考えていたようです。しかし、今までの政治体制の打破を、目指していた民衆からの理解は当然のことながら得られなかったと言うのもまた悲劇かもしれません。その点では、自ら皇帝を名乗った後漢の袁術に似ている事は言うまでもありません。
 
結果的に、その失意の中で亡くなりますが、彼が中国に与えたこととしては、今までのリーダーとは異なる新しい考えを持ったリーダーでなければ、国家を動かすことはできないと言う事を、教えてくれるかもしれません。
 
以上です。

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