今年で100年第3段―終章 彼は陸を失い島を得た―

本日の話題も、「歴史もの」から辛亥革命のお話です。今回はラストの蒋介石です。
 
蒋介石とは、昭和50(1975)年に亡くなられた台湾の中華民国首席です。彼の話は、革命とその後の内戦に彩られております。その中で、2点に焦点を絞りました。1つは、革命になぜ参加したのか、そして、2つは、国家のトップへ向かってなぜ走ったのかについてです。
 
それでは、1点目の革命になぜ参加したのかについてです。
彼の生い立ちについてみていきましょう。明治20(1887)年に浙江省泰北県に塩商人の父と、教育熱心な母親の間に生まれたのですが、その7年後には日清戦争が勃発し、日本の発展を目の当たりにしたのかもしれません。
それから2年後、父親を亡くします。その後、母親の教育が実り、立派な青年に育ちますが、日露戦争の開始の年に浙江省のエリート養成教育機関に入学し、日露戦争終結後の明治39(1906)年に日本に渡っているのです。いわば、日清留学の留学生の一人だったと言う事になります。ところが、留学先である東京振武学校では、保定陸軍軍官学校の出身者しか入学が認められていなかったために断念し、その1年前の明治38(1905)年に発足したばかりの中国同盟会の党員となります。
その翌年の明治40(1907)年に再び日本に渡り、東京振武学校に入学を果たしました。その後から、彼の軍人としての人生となります。明治43(1910)年に日本陸軍に勤務します。
実は、その翌年こそ、辛亥革命の起こった明治44(1911)年に当たります。また、実はこの日本陸軍に勤務しているところで、孫文に出会う事になります。これが運命の転機となるのです。
 
しかし、本土に戻ってからほどなく第2次革命で敗戦、再び日本に亡命します。時代は、大正に入り大正3(1914)年に、第1次世界大戦が勃発、中華革命党に参加、そして、孫文とともに、革命を前進させようと力を尽くします。その中で、中国共産党等とともに、中国を統一するために行動を起こします。
しかし、孫文が大正14(1925)年に亡くなると、次第に力をつけ、トップに上り詰めていくのです。
 
ただ、その後は、中国共産党を脅威として警戒し、昭和2(1927)年に「上海クーデター(国民党員が共産党員を襲撃した事件を指す)」により、「第1次国共合作(1924年1月~27年4月)」を崩壊させ、「第1次国共内戦」を繰り広げる事になります。
結果的には、それがかつて過ごした日本と敵対する路を作る事になってしまいます。そのあとは、再び内戦を戦い、台湾に逃れます。結果的には、そのまま大陸に出ることなく生涯を終えたのですが、結果的には大陸ではなく島を得たと言う事になります。しかし、これが現在に至る台中問題の引き金となった事は言うまでもありません。
本当に、そうだったのでしょうか。これには、その時代と列強との付き合いがあったと言えるそうです。
第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先しました。しかし、むしろ、スターリンは彼を評価していたと言われており、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説があったようなのです。
実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというそうですが、スターリンは許可しなかったようです。また、蒋介石の息子である蒋経国は、実質的な人質としてモスクワへ留学しているそうです。
 
と言う事で、今回の辛亥革命シリーズはこれにて、次回はお開きとまとめです。
 

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