今夜が最終回「坂の上の雲」、しかし…。その2

本日の話題も、「歴史もの」より、昨日放映された『坂の上の雲』について、歴史家としての見方をしてみる。その第2弾です。
 
昨日は、日本陸軍の第3軍が挑んだ「旅順攻撃(本当を言うと旅順攻略です)」について、近年の研究を、お話ししましたが、今回は、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊「日本海海戦」についてお話ししたいと思います。
この海戦を扱った書籍の中で、今まで信じられてきた話として、「丁字戦法」を用いて勝利をしたと書かれていることです。ところが、近年の研究で異なる事実が明らかとなってきました。
「日本海海戦」の後、当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎大将(後元帥になります)は、次のように語っています。
「あの勝利は天佑神助であった。」
と言ったのです。
では、本当の「日本海海戦」はどういう事になったのでしょうか、それについて検証してみようと思います。
それに当たりまして、要点を整理すると7点に分かれます。
 
1.丁字戦法はなぜ外さなければならなかったのか。
2.バルチック艦隊が通るコースになぜ混乱があったのか。
3.海軍参謀だった秋山淳五郎真之が、なぜ「晴天ナレド波高シ」と書いたのは。
4.Z旗を出した瞬間に、バルチック艦隊の位置に間違いがあったのは。
5.司令長官の命令を無視した艦隊がある。それには…。
6.「敵艦見ユ」を打電した縁の下の力持ちの存在。
7.「日本海海戦」を歪めたのは何か。
と言う事になります。それでは、各々で検証を始めてみます。
 
1.丁字戦法はなぜ外さなければならなかったのか。
これは、意外な要点かもしれません。実は、「日本海海戦」から遡ること9か月前に、その答えとなる海戦が旅順であったのです。明治37(1904)年8月10日、「旅順攻撃」を行った乃木希典の率いる日本軍第3軍の攻撃によって、旅順湾内からロシア軍艦隊(太平洋艦隊)をおびき出されたのです。そこで、連動していた連合艦隊は出撃し、海軍参謀の秋山淳五郎真之中佐が用いた戦法が、「丁字戦法」そのものです。
それが、予想外の展開になりました。旅順湾内からおびき出されたロシア軍艦隊は、出ることができないと見るや、湾内に逃げ込みます。実は、ロシア艦隊の目的は、ウラジオストックへの逃避行だったのです。
これは、参謀陣にとっては予想しなかった展開で、追撃体制に移るのですが、戦艦5隻などを取り逃がしてしまうと言う失態を犯すのです。この海戦は、「黄海海戦(日露戦争)」と呼ばれるようになります。
ここで、敵が逃げた場合にも対応させるために、戦法の変更案を出すことになります。これは3.でも触れることになりますが、「7段構えの戦法」と呼ばれるものです。これは、9か月前の戦訓として編み出したものであるのですが、「併航戦」に持ち込む戦法もこの中で議論された可能性はあると言えます。
 
2.バルチック艦隊が通るコースになぜ混乱があったのか。
この混乱を結論から述べると、情報不足と言う問題があります。確かに、ベトナムのヴァン・フォン湾を出航した明治38(1905)年5月18日以降、5月27日に哨戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」に発見されるまで行方が分からないと言う事態に陥ります。この時に、参謀他司令官級が連合艦隊旗艦の戦艦「三笠」に集まり、どこをバルチック艦隊が通過するのかと言う議論が展開されました。
おもに、コースは3点に絞られており、対馬沖、津軽海峡、宗谷海峡のどこを通過しているのかを、参謀たちが意見を出し合っていたそうなのです。大方の見方は、津軽海峡に進んだのではないかと言う意見が有力でしたが、島村速雄第2戦隊司令官(前参謀長)と、藤井較一第2艦隊参謀長が対馬沖を主張する状況でした。
ただ、その二人の読みは、仮装巡洋艦「信濃丸」の通報により明らかとなります。
ここからして、2人の読みが歴史を決めたと言っても過言ではないかもしれません。
 
3.海軍参謀だった秋山淳五郎真之が、なぜ「天気晴朗ナレドモ波高シ」と書いたのは。
これも結論から述べますと、以外ですが、天候が良くなかったと言う不運による一文であることが分かってきました。ここを『坂の上の雲』では、「『天気晴朗』とは、住み渡る空で敵を遠くまで見渡すことができることを指し、『波高シ』とは、波が打ちあがり敵艦が波をかぶりやすく連合艦隊にとっては有利であった」と書いております。
事実は、「風が強くて波が高い。これでは、連繋機雷を投下する奇襲隊の水雷艇は出動できない恐れがある」という報告文となるのです。これは、『坂の上の雲』とは真逆です。実は、連繋機雷と言うのは、300mぐらいのロープに、4機の機雷を連結し投下するという特殊兵器で、その特殊兵器に絡まる事によって、先端が爆発し沈没する可能性が高いのです。
実際に、連合艦隊は水雷艇を出撃させたのですが、波に左右されて航行に問題があるという報告を受けることになります。
つまりこれは、無傷のバルチック艦隊を迎えることになると言う事を意味し、この一文を含まなければならなくなったと言う事になるのです。
 
4.Z旗を出した瞬間に、バルチック艦隊の位置に間違いがあったのは。
結論は、情報の伝達による間違いです。実は、哨戒任務についていた巡洋艦「和泉」の報告が10000m東にずれてしまったと言うのです。正式には18000mで回頭すると言う計画を立てていたのです。所が、実際には10000m西側にあり、そのままでは、併航戦に持ち込むことはできないと判断し、まるでアルファを描くようにターンしていったという事になります。
ここで、Z旗を出したのが、後に「東郷ターン」と称される敵前大回頭のわずか10分前です。この時に、掲げたZ旗は、元々は「ボートがほしい」と言う信号でしかありません。ところが、これを「皇国の一戦ここにあり」と解釈してあげたのがこの旗と言われております。つまり、士気を高めるための道具としての役割があったのに他なりません。
 
5.司令長官の命令を無視した艦隊がある。それには…。
この要点には、実際現場でどう言った判断があったのかについて、書いていない部分の補足みたいなものです。
結論からいいますと、無視した艦隊はいた事が分かっております。その艦隊をひきいていたのが、上村彦之丞を司令長官とした第2艦隊、この第2艦隊は、バルチック艦隊の1隻(戦艦「クニヤージ・スワロフ」)が回頭した事から、東郷司令長官は追撃命令を発します。
しかし、上村彦之丞の艦隊は、動くことがなくそのまま、バルチック艦隊を追い続けます。これには、一人の参謀の存在がいるのですが、地味な存在だったみたいです。名前は佐藤鉄太郎と言う人物、出身は東北の鶴岡です。この第2艦隊参謀の彼こそ、秋山淳五郎真之を超える存在と言われております。戦略を立てる上では、彼を除いて他にいないと言われるほど、優秀な人物です。特に海軍兵学校の成績がよく、戦士戦略を英国留学と米国駐在で学びます。実は、秋山淳五郎真之も米国と英国留学で、戦術を学んできた点で共通する人物です。
また司令長官の上村彦之丞は、元来の熱血漢と言われる人物で、感情の激しい人です。
所が、この二人がとった行動は、実際言うと、いいほうに転がります。
それは、バルチック艦隊の1隻(戦艦「クニヤージ・スワロフ」)が回頭したのは誤りであり、舵が故障したことによるもので、決してバルチック艦隊が北上を指示したわけではないという根拠に基づく、佐藤鉄太郎の判断があったからです。
それを考える上では、命令に逆らったとしても、いい方向に転がったと言う事になります。
 
6.「敵艦見ユ」を打電した縁の下の力持ちの存在。
これは、結論から述べると、平成24年にノーベル物理学賞を受賞した田中さんが所属していた企業、「島津製作所」の事です。どこの装置に使用されていたのかと言いますと、無線通信装置の蓄電池です。この蓄電池を制作したのは、2代目の島津源蔵と言うお方です。これは、モールス信号を伝達するために作ると言う事やっていたようです。
他にも、民間企業の三井商船等や、からゆきさん(異国で行っている売春婦の事です)の「アンチプロパガンダ」を流したことによって、後方撹乱されたという事実があります。
そこから考えると、この海戦は、日本国民によって成し遂げられたと言う事になります。
 
7.「日本海海戦」を歪めたのは何か。
この答えは、大正時代に書かれた書籍、『明治三十七年海戦史』です。この書籍が、イメージを植え付けたことになります。しかし、真実は『極秘明治三十七八年日露海戦史』にその中身が乗っております。これは脚色のない作品と言えます。
ただ、東郷平八郎の活躍を描くために、『明治三十七年海戦史』は多くを脚色しております。しかし、真実は、どういうことなのか、これを考えても答えは見つからないと言えるかもしれません。
 
最後のまとめとして、どうして、司馬遼太郎氏はどうしてこう書いたのか、それを翌日に回します。
 
参考文献:『歴史街道』 PHP出版発行(11、12月号より抜粋しました。)

この記事へのコメント