今夜が最終回「坂の上の雲」、しかし…。結論

本日の話題は、「歴史もの」から、『坂の上の雲』のについて、歴史家として見てみるの最終回です。
 
実は、昨年の2月16日に、「坂の上の雲」についてその背景を書いたことがありましたが、晩年彼は、次のような言葉を語らせております。
「事実を書いた」
と。
 
しかし、この近年の研究からわかってきたことは、歪曲されてしまった歴史資料の多用と、資料のみしか用いなかったと言う検証の不確実だった事です。
しかし、それを批判するのではなく、「このような形で書かなければならなかったのは、なぜか」という点に、注目して話を進めます。
 
実際、彼が『坂の上の雲』に関して筆を執ったのは、昭和43(1968)年のこと、産経新聞に連載されることになります。この時の世界情勢を見ると…、日中との国交は4年後の昭和47(1972)年にずれるのみならず、旅順(実は、中華人民共和国人民解放軍の軍港として機能しているから当時、出入りすることができなかった)に旅行者がで歩くことができるようになったのは、連載から30年後の平成10(1998)年と、司馬遼太郎氏が亡くなってから2年後の事です。
また、当時冷戦下にあった世界では、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカの敗戦が現実を帯び始めていた頃であり、アメリカ国内では公民権運動の中心人物とされたキング牧師の暗殺、平和運動の高まりなどがあり、日本国内でもGNP(Gross National Ploductの略称)が世界第2位となるほど経済が潤った時期に当たります。
 
こう言った背景から、明治の日本を描く下地、つまり、現地取材が許されていなかったという点や、採用した当時の歪曲された歴史資料を頼らなければならなかったという事実につきあたります。また、そう言った資料が公開されたのは、GNP(Gross National Ploduct)が世界第2位と発表された昭和44年に、陸軍の資料と海軍の資料が開示されたことからも、日露戦争の研究が初歩的な段階で、資料に関しての検証が不十分なまま、物語にしてしまったと言う部分があり、私は司馬遼太郎氏が、この限られた資料の中で、他の事実を隠した『極秘戦史』を、まともなものと認識できなかった可能性があります。
 
別の視点からは、彼の精神性が影響したのだと、言われております。実際、司馬遼太郎氏は天皇をこの『坂の上の雲』では登場させておりません。
これは、悪の精神性の象徴であると言う事で、彼は忌み嫌ったと言う可能性があります。例えば、陸軍の軍神となった橘周太を、「軍歌で有名な、あの橘周太が戦死した」と書いてあるように、乃木希典の評価を下げる描写が目立つのもこのためと考えられます。
それゆえ、彼が悩みに悩みぬいて、作成した。作品だと私には思えるのです。
 
今現在、この物語を描き直すと、どう言ったことになるのか…と、私は考えてしまいますが、これらの事を知った上で、また読み直してみたり、ドラマを見たりするのも良いと思います。
 
最後に、この話を締めくくるために、昨年の記事の最後の部分を抜粋して終えようと思います。
 
この時代の政治家は、「日本を一人前の国にし、これを維持する」と言う精神がありました。それは、戦後の初期も同様のことだったと言っていいでしょう。しかし、今はどうか、それは、80年前の日本にあったと私は思うのです。
日本も一時期、2大政党制になるものの、政治の乱れにより、「5.15事件」で早くも崩壊します。
つまり、「日本をに一人前の国にし、これを維持する」と言う精神が薄れたからこそ、太平洋戦争の敗戦は起きたと言うのは言いすぎかもしれません。しかし、彼に言わせれば、そう言う事だったのかもしれません。
今の時代の人間にとって、明治の志を持った人々の活躍を、単なる活躍の活劇でとらえるのではなく、今後の時代の指標として、とらえなければならないと私は思うのです。
(加筆修正しました。)
 
つまり、私たちにも当てはまることだと言えるのかもしれません。
 
以上です。拝見していただきましてありがとうございました。

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