インドネシアの政権交代と革命。

本日の話題の2題目は、「歴史もの」の東南アジアシリーズ第2回と言う事で、今回取り上げる国家は、「インドネシア」です。ちなみに、今回はポイントを3つに絞って、話す事にします。一つは、インドネシアと日本の関係からスカルノ大統領について、二つは、スハルト大統領の登場。三つ目は、通貨危機による反動です。

実は、この話も「アジア通貨危機」が密接に関係しているのですが…。その前に、日本とも関係していると言う事をご存知でしょうか。答えは、デヴィ夫人です。

この方の日本での本名は別にありますが、インドネシアでの正式名称はデヴィ・スカルノとなります。と言う事は、スカルノ大統領と関係があるのかと、考える人もいるかもしれませんがその通りで、彼女の夫がスカルノ大統領、そして、本日の主役はそのスカルノ大統領を追い落とした…スハルト大統領と言う事なのです。

デヴィ夫人にも触れましたので、そのスカルノ大統領の事についても話をしていこうと思います。
インドネシアの国家自体の発足は、今からさかのぼる事63年前の昭和24(1949)年までさかのぼります。しかし、独立宣言は、太平洋戦争終戦後すぐの事で、その時の司令官こそ、スカルノ大統領その人だったわけです。

つまり、国家の英雄が国を治めるという図式はどこの国とて同じと言う事だと言えます。しかし、スカルノ大統領の政権はこの後、民主主義制度を導入したのですが、翌年の昭和25(1950)年に制定した憲法の為に、国内の分裂が昭和30年代に続発する事態となり、これではいけないという危機感からか、独立当時の憲法に戻され(独立当時の憲法は独立宣言時に制定されていた)、大統領の権限を強化する独裁体制を敷きます。それが、昭和34(1959)年の事でした。

実を言いますと、デヴィ夫人はそれから3年後に結婚、大統領の第三夫人となりますが、此処で「第三夫人」と言う言い方をするのは、インドネシアの宗教が、マレーシアと同じイスラム教だったと言う事に起因するからです。つまり、妻は4人まで持つ事が出来ると言うのが、この当時残っていた事を表しております。

少し横道にそれたのですが、デヴィ夫人の結婚から2年もしないうちに、スカルノ大統領は失脚する事になります。それが、昭和40(1965)年の9月30日クーデターで、その指揮した司令官こそ、スハルト大統領と言う事になります。
実は、このクーデターの裏には、当時の東西冷戦の影が色濃く残されておりました。まず、スカルノ大統領のとった政策は、共産主義国家、それを支持する勢力を取り入れる独裁政治と言う事にあったそうです。
ところが、しかし、これに危機感を抱いていたのが、アメリカなどの西側諸国で、その関係を一気に修復したのが、スハルト大統領です。
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しかし、この陰には、アメリカの存在が取りざたされており、この事件による死者は一説によれば50万人いたと言われているそうです。ただ、真相は闇の中です。
(実は、平成13(2001)年に公開された文書を分析した国家安全保障公文書館は、CIAの機密文書が抹消されている部分を取り上げ、米政府が反共キャンペーンを支援したことをCIAが隠そうとした事実を指摘しているそうです。
まあ、そんなこんなで、クーデターを成功させたスハルト大統領は、昭和43(1968)年に正式に大統領に就任し、国連に復帰させた(スカルノ大統領は一時国連から脱退を突きつけられる行動を取っていたとの事)功績は高かったものの、国内政治では、共産勢力などの弾圧を強め、さらに独立運動の芽を摘み取ったと言われております。その最たるものが東ティモール独立戦線による武装放棄への介入(昭和50(1975)年)です。
この事件は、平成18(2006)年の東ティモール独立のときも問題となったのですが、わずか31年ほどの併合期間を経てと言う事を考えると、インドネシアと周辺国との対立は、このスハルト大統領の時代から積み重なったものと言えるのかもしれません。

さて、そのアジア通貨危機が、インドネシアを襲います。最初は、インドネシアに追い風となったのですが。平成9(1997)年のバーツ変動相場制導入が、この変動相場制の移行こそ、インドネシアを窮地に追い込みます。
この結果、インドネシアの通貨が下落を開始、これによってスハルト大統領に対する不満が爆発すると同時に、スハルト大統領は、その収集の為に奔走するのですが、混乱はおさまらないと言う中で、辞任を余儀なくされます。

最終的に、独裁者として32年ほど地位にあったスハルト大統領は、失脚する事になり、ハビビ大統領が、後継者として着きますが、それから4代ほどの時間が流れ、今も発展し続けております。これからも、インドネシアは、この東南アジアの主要国になっていくのかもしれません。

と言う事で以上です。