中国と日本の関係に迫るたび(2)

本日の話題は、2本立てですが、その1本目は、「鉄タビ」から、昨日の続きです。

三宮駅で、姫路行きの直通A特急に乗りこんだ私たちは、舞子公園駅で、列車を降りました。
イメージ 1
それで、乗った編成を撮影し、その足で移情閣に向かいます。

この移譲閣、実は在日華僑と呼ばれる呉錦堂さんと呼ばれるお方が、大正4(1915)年に建設した世様式建築の事を指します。
この移情閣を孫文記念館としたのは革命から72年後の昭和59(1984)年の事です。
イメージ 2
さて、今回の移情閣に行くまでの間、私は、SさんとAさんの2人に、この移情閣の展示されている孫文について、中華民国と中国について、近隣諸国(東および東南アジアと中国)との揉め事に関してなど、さまざまな話をしておりました。

ここで、孫文について、補足をしておきます。
実際、孫文自身は、袁世凱に臨時大総統職を譲った大正2年以降、再び日本に来日し、多くの同志たちを集める事に尽力します。その中で、第1次世界大戦の報を聞き、中華革命党を組織しますが、袁世凱がストロングマンぶり(?)を発揮したのか、「皇帝」を復活させる暴挙に出て、民衆の怒りを浴びる結果になります。
しかし、日本の「対華21ヶ条要求」に対する中国国民の怒りもあり、大正7(1919)年の「5/4運動」で爆発すると言った社会情勢を見てきたことからか、中国国民を指導する姿勢に立って「中国国民党」に組織名を改める事になります。
その後、中華革命党に参加していた蒋介石を校長として「黄埔軍官学校」を創設、軍事面でも革命を成し遂げられる指揮官たちを育てようと奔走します。
この後、軍閥の退去するために北伐(この時すでに第1次国共合作を行っている)を断行するのですが、この時、癌に蝕まれていた孫文にとって、時間がな勝ったのかもしれません。結果的に大正13(1925)年に息を引き取りますが、その時の有名な言葉こそ、
革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」
という言葉です。
これを、遺言として残すのですが、蒋介石は、結果的に共産党と対決する姿勢を見せていきます。

さて、補足はここまでとして、その中を見ていきます。
イメージ 3
こちらが、移情閣の本体ですが、正八角形の建物で、当時としては珍しく外を覆う塀の壁が、コンクリートだったと言われているそうなのです。
コンクリートブロックによる日本最古の建造物の様ですが、中身は当時の宗慶玲(後に中華人民共和国初代副主席)の嫁入り衣装が展示されていたりするなど、さまざまな、資料が展示されており、一級資料が展示ケースに丁寧に、展示されているなどかなり豪華に見えたのが印象に残っております。

とくに、明治37(1904)年の上申書等もあるのだそうですが、もう一人が麦氏と呼ばれており、明治34(1901)年に帰化していると言う(月日もついて)事がわかってくるほど、面白い資料が展示されております。ただ、片仮名交じりなので、読みづらいかもしれませんが、見ていて損はないと思います。

それでは、夜も遅くなりましたので、此処で失礼します。

次回は、移情閣に隣接する建物に旧武藤山治邸を案内いたしましょう。それでは。