中国と日本の関係に迫るたび(5)

本日の話題は、「鉄タビ」から、旧竹下家住宅から明石へと足を延ばすと言う話です。
その間に、現在に至る日本と中国の関係についても同時ではありますが織り交ぜて、お話します。

さて、3箇所の文化財をまわってから、お昼をとっくに過ぎて午後2時と言う時間帯…、さすがに、空腹は待ってくれず、その足で、明石まで行く事になりました。
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姫路までの列車は、午後2時台に出る直通特急と、普通しかないので、直通特急 に乗っていく事にしました。

そして、10分後に山陽明石駅に到着。明石焼きを食す事となりました。それがこちらです。
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食べている間に、太平洋戦争終戦後の日本と中国の関係を、話す事にします。
昭和24(1949)年に中華人民共和国の成立以後、日本は台湾政府(国民党政府)を、唯一の相手国として交渉を進めます。そして、国交を回復したのは4年後の昭和28(1953)年の事です。台湾との国交を結ぶのですが、この時に中国本土との関係を考えれば、台湾と日本の関係は、国際関係の一員になったのですが、政府方針に反してソ連から直接北京を訪問。第一次日中民間貿易協定に調印という行動を取った人たちがいたと言うのです。
中心人物は3人ほどいます。高良とみ帆足計宮腰喜助の3人です。彼らは中華人民共和国との貿易を望むべきであると言う考えからか、中華人民共和国に向かいました。これが昭和27(1952)年の事です。
その5年後となる昭和32(1957)年になると、岸信介首相の政策によって、方向転換させられる結果となってしまいました。

岸首相の後を継いだ当時の大蔵大臣で後に首相となる池田勇人氏は、このままでは両国にとっても良くない。私貿易ならいいのではないかと考えるようになり、LT貿易と呼ばれる私貿易を許可するという事でかじを切ったのです。
これが、昭和37(1962)年の事、半官半民の体制で臨むのですが、日本側のトップであった高碕達之助さんは、昭和39(1964)年に死去してしまい。関係が変化、台湾政府との関係はこじれてしまう結果となってしまいます。

それから8年後の昭和47(1972)年に日中国交の正常化が実現しますが、田中角栄氏が日中国交正常化交渉に行ったのではなく、前触れとして台湾の世界的な孤立が起きる事になります。これが「ニクソンの電撃訪問」が話題となった昭和46(1971)年の事です。
それから、危機感にかられた日本政府は、田中角栄首相、大平正芳外相等と共に、日中国交を推進していく事になります。

さて、次回は最終回です。最後にまとめとして、日中平和友好条約と日中国交の今をお話します。

以上です。