中国と日本の関係に迫るたび(6)

本日の話題は、「鉄タビ」のお話から、まとめと題しまして、現在の中国との関係などを織り交ぜつつ、お話いたします。

そんな中で、卵の風味と和風だしの効いた明石焼きを食べ終えた後、再び明石駅に戻り、上りの列車を待つところから、再開します。

とりあえず、時刻は午後3時を回っておりました。結果的に大阪までどのくらいかかるのか、まったくわからない中で、とりあえず列車を待ちます。そこに、阪神三宮行きの普通が到着。
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これを見送ると、梅田行き直通特急直通B特急)が続いてやってきました。
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これに乗って、終点の阪神梅田まで走ります。
その中で、Sさんと話をし、ときどきAさんとも話をして、いろいろと感想を言って行きました。
さて、此処では、そのやり取りを掲載していくわけにはいかないので、途中で次回に持ち越しとして、中国との関係に関する歴史の近年の部分に触れる事にしましょう。
国交正常化を達成した日本(昭和47年の「日中共同声明」以降)は、その2年後となる昭和49(1974)年に中国との正式な貿易を開始することで合意し、日中の交流が活発化します。しかし、これは台湾にとっては、非常に屈辱的な年代となります。
昨日に触れましたが、台湾の孤立化がもはや避けられなくなり、昭和47(1972)年の日中国交正常化と同じ年の国連総会で、台湾に対して脱退を勧告すると言う事態になりました。
結果的に、世界ではこの国連総会で、中華人民共和国が初めて認められると、同時に民主中国と共産中国の地位が逆転する結果をもたらした事は、歴史の皮肉と言えるかもしれません。

さて、日中関係もここで大きな飛躍を見せますが、その前に、この田中角栄首相が中国との正式な貿易を開始することで合意した昭和49(1974)年に退陣すると、三木武雄内閣を経て、昭和51(1976)年に福田武雄氏を首相とする福田内閣が発足します。
実は、この福田内閣が、日本と中国を新たな段階に押し上げる役目を果たします。それが、日中平和友好条約の締結です。
実際には、日中国交正常化の柱となった日中共同声明をもとに締結交渉が開始されたようなのです。実は、この二つを関連させる世界史の状況を追ってみましょう。
当時、冷戦の中で蜜月の関係を保っていたはずの旧ソ連と、中国の関係がぎくしゃくし始めた昭和35年から昭和44年までで、結果的に昭和44(1969)年の中ソ国境紛争による軍事衝突で激化する事になります。
実際、昭和41(1966)年から11年間にわたり続いた「文化大革命」によって、国内政治も大混乱に陥り、アメリカなどの西側に接近しようと模索し始めます。
当時、対岸のアメリカも、昭和39(1964)年のベトナム戦争の参戦(北爆)により、大量の軍事力を投入している為に、これ以上敵を作るのは避けたい思惑があった為から、キッシンジャー氏の訪中、そして、ニクソン大統領の訪中があり、日本はその流れに遅れるのではないのかと言った危機感を感じ取って、角栄氏の訪中を実現させます。

さて、此処でブレイク。
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列車は、神戸市内を抜け、徐々に飛ばしております。

では、戻りましょう。
その中で、日中国交正常化に取り組む田中角栄氏と、台湾重視派と言われる福田武雄氏が、実は、昭和47年の自由民主党の総裁選挙で戦う事になってしまいます。そこで勝利した田中角栄氏が首相になったので、日中国交正常化に取り組むのです。

そこで、日中国交正常化に成功した後、日中平和友好条約の締結に進みます。そして、昭和53(1978)年の事です。これには、アジア諸国との連帯を目指した「福田ドクトリン」の存在があり、中国との関係を「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」と述べたのだそうです

結果的に、それから32年たった現在、日本との関係は、平成10年の第2の日中共同声明と言われる「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を、小渕恵三首相(平成12年に急逝)によって締結し、さらなる友好関係を築いているという段階です。

さて、最後のまとめとしたかったのですが、次回に回します。最終回は、現在の日本と中国の取り巻く環境と問題さらに、周辺諸外国の例を合わせて、お話します。

以上です。