歴史のタブーに迫る 第4回:南京に虐殺はなかったのか?―日中戦争最大の事件南京大虐殺に迫る―

本日の「歴史のタブーに迫る」の4回目は、日中戦争の最大の謎となっている「南京大虐殺」と言う事件に迫ります。

今回の話は少し複雑になります。これには、国家間の問題が横たわっており、かなり議論されている問題です。その点について4点に分けて迫ってみようと思います。

その前に、南京大虐殺の経緯を追ってみましょう。
昭和12年8月9日に日本軍との戦闘(第二次上海事変)で、中華民国軍が撤退し始めた後、逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せる作戦に打って出ます。
これは、兵法の「兵とは詭道なり(戦争と騙し合いである)。」と言う方法に基づくものです。

そこで、追撃に移った日本軍は、政府の主要閣僚である蒋介石(詳しくは「今年で100年第3段―終章 彼は陸を失い島を得た―」で。)を捕らえようとしたのですが、蒋介石は、うまいこと脱出して、昭和12年も暮れに迫った12月13日に南京が陥落と言う事になります。

日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでた事が、きっかけになり。
12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われています(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)。

この様な形で、虐殺等が行われたという事実を、現在の中華人民共和国政府は公表しており、事あるごとに、騒ぎ立てていると言う点があります。

さて、その4点とは、

1.日本軍の関与はどこまでだったのか?

2.虐殺のそもそもの定義はどこまでなのか?

3.虐殺の人数が年を経るごとに増える理由はどこに…

4.それぞれの大国の思惑…。

さっそく1に入ります。

1.日本軍の関与はどこまでだったのか?

さて、先程から気になっているのが、日本軍自体がどこまでかかわっていたのかです。これは、先程の経緯にもありましたが、この話は、第二次上海事変のあとに、起こった戦闘の一部と考えられます。しかし、その中で、日本軍に関する関与に関しては、9人の近代史学者が、証言を集めており、その証言の信ぴょう性が問題となるところです。

そこで、その中で日本軍関与の肯定する学者では、さまざまな調査をもとに、虐殺があったと言う話が出てきております。
その中で、第16師団長の中島今朝吾中将が記した日記、「捕虜ハセヌ方針」の部分が議論となっていたのです。これを、日本軍全体の方針であると記す吉田裕さんは、裏付けとして次の3点の資料をあげています。

1) 第16師団第38連隊の副官・児玉義雄は、師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた証言していること。
2) 第16師団歩兵33連隊「南京附近戦闘詳報」には、捕虜処断として3096名と記されている事。
3) 第114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報には、「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」という捕虜殺害命令が記されている事。

です。
それに対して、東中野修道氏は「捕虜ハセヌ方針」を捕虜殺害命令だとすると、文章に不自然な捻じれが生じると主張し、さらに、「捕虜ハセヌ方針」は、①捕虜にする、②殺害する、③追放する、という3つの解釈ができるが、「①捕虜にする」は「捕虜ハセヌ方針」に反する、「②殺害する」は、当初から殺害する方針であったとすればそのことを日記中に明記するはずであり、明記しなかったということは殺害の方針ではないと言う意見を述べております。
さて、12月13日の彼の日記には、

中島今朝吾日記 12月13日
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ  斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル【予定ナリ】

とあるのですが、否定説を唱える学者からは、以下の3点の指摘がされております。

1) 東中野修道氏の検証には、「一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し…」の一節が完全に抜け落ちており、この記述を見ても捕虜の殺害方針であることは明らか。
2) 児玉義雄(歩兵第三十八連隊副官)、沢田正久(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)、宮本四郎(歩兵第十六師団司令部副官)、助川静二(歩兵第38連隊長)は、それぞれ証言や回想において、捕虜殺害命令を受けたとしている。
3) 釈放説を唱える大西一証言は、偕行社からさえも「シロだシロだというだけ」として、信憑性について批判を受けている。

とあり、現在も議論が続いているのが実態です。また、否定説を主張する学者の多くは、「松井大将が12月9日に「平和開城の勧告文」を飛行機で散布し翌10日正午まで返答を待つなど、南京の軍民を保護しようと尽力したのに、組織的に残虐行為を行ったとするのは根本的に矛盾がある」と主張しており、兵士の体力消耗と弾薬・燃料の浪費であること、サーベルなどで殺害するにしても武器を無駄に傷めることになり、日本軍にとって利益にならないことなどを理由に、日本軍に大虐殺を起こす合理的な動機は存在しないと主張するのです。

これも、議論が尽くされていない点の一つです。また、何を持って虐殺とするのか…。その定義自体も実際を言いますとあいまいな部分が多い事も、この事件を難しくしている一つと言えます。

2.虐殺のそもそもの定義はどこまでなのか?

攻略戦時の兵士・市民の犠牲者を「虐殺」とは見なさない問う見解をしている学者が多いのも事実で、先程の東中野修道さんもその一人です。
この方の研究によれば、便衣兵(ゲリラ兵)、投降兵の殺害については戦闘行為の延長であり戦時国際法上合法であるとし虐殺に分類しない。日本兵による犯罪行為も若干はあったが大規模な市民殺害は当時の史料では確認できない。しかも、南京大虐殺があったとされる3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録があり、大規模な市民殺害があれば人口が増えるはずがないので、百人単位の虐殺もなかったのは矛盾する、というものです。

また、平成19年4月9日の「南京事件の真実を検証する会」では温家宝首相が来日していた際に、本人に対して、「事件の存在を信じるには無理がある」とする公開質問状を提出。日本の国会でも松原仁衆議院議員がこの問題を取り上げたことは有名です。

その質問状の議論点は3点に集約されております。

1). 毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺などということを言わず、当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても言及されたことがない。
2). 国際委員会の活動記録というべきものが「Documents of the Nanking Safety Zone」と題して1939年に出版されているがそこで述べられている南京の人口は12月中ずっと20万と記録され、翌1月14日には人口25万と記録されると、これ以後は25万とされていた。そして殺害件数は26件と報告されるものの1件を除き目撃情報はなく、その1件も合法的なものとされている。
3). 虐殺を証明する写真がなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されている。

と言う事です。

しかし、肯定説の学者たちは、この説を受け入れておりません。はたしてどうなるのか、まだ議論が続くと言われております。

3.虐殺の人数が年を経るごとに増える理由はどこに…

さて、最大の謎となるのは、虐殺人数の年年ごとの増加です。
これは、2.と絡めての話になります。中国側論者の見解として大方が主張しているのが、30万人以上の犠牲者が出たと言う話です。しかし、この論理には科学的な根拠がまったくなく、日本側の学者は、十数万人以上の犠牲者が出たと言う見解を示している人もいれば、数千人の犠牲者が出たなど、さまざまであり、どれが正しい数字なのか、はたして虐殺自体があったのかの二つで大きくもめております。

そこで注目するのは、中国側論者の見方が主張する30万人と言う根拠です。江蘇省社会科学院研究員の孫宅巍さんが調査した事では、1,000人以上の大規模な集団虐殺数と、それ以外の集団虐殺数を割り出し、これらの調査結果と埋葬記録とを照らし合わせ、その数を27万4000人と推定していますが、これには先程の科学的な根拠は全くないという現実があり、日本軍の悪逆を見せつける為の数字と感じる学者もいるとの事です。

それに対して、これを真っ向から否定しているのが、評論家の黄文雄さんです。
彼の述べる事から言えば、この虐殺(そもそも否定かもしれませんが)を行うような軍隊が、「日本軍」とは言えないと主張しているのです。

それは、「三光作戦」と言う言葉が日本にはなかったと言う事です。
これを主張しているのは、「日本軍」はこの様な行為をしていなかった根拠に、地元民衆が、日本軍を歓迎していたと言う事実があるからだと主張している事です。
つまり、解放軍としてみていたのです。

彼が述べた事が意味していた事は…。

4.それぞれの大国の思惑…。

おそらく、これが結論となります。中華人民共和国が国際社会の中で、自分たちの正当性を述べようとしたために述べた「嘘」と言うのが、彼の結論です。
ただ、結果的には、自分たちの利益などを守ろうとして弱みを握り、それで脅しをかけてきたというのが結論だと言うのです。

私も、これが事実だと言えるのかどうかは、まだまだ、分からない部分があります。これは、事実解明は当分先なのかもしれません。
いえ、ずっと先だと、私にはそう思います。

以上です。