歴史のタブーに迫る 第5回:戦争では勝利、外交は敗北?―日ソ最大の謎、ノモンハンの真相―

本日の「歴史のタブーに迫る」の5回目は、日中戦争の途中で起こった「ノモンハン事件」を取り上げます。

この「ノモンハン事件」は、昭和14年の5月から6月にかけての第1次「ノモンハン事件」とそれ以降から9月にかけての第2次「ノモンハン事件」に分かれます。しかし、その事件をひとまとめにしての評価は、

ソ連軍に、敗北した。

と一言で終わっております。これが何を意味しているのか…。それを紐解くために、今回注目する視点は4点です。

1. ノモンハンは本当は勝ち試合!

2. ソ連はどうして、勝ったと報じたのか?

3. その背景にはナチスの影が…。

4. 昭和史を見直す視点として。

として、見てみます。

さて、今回の「ノモンハン事件」の経過を追ってみましょう。
まず、現在の資料では、日本軍によって戦闘が仕掛けられ、ソ連軍に迎撃されたとしております。その中で、1.の疑問が出てきますが…。

1. ノモンハンは本当は勝ち試合!

旧ソ連軍および、政府が昭和20年の終戦において、次のような布告をしている事が、敗北の裏にはあります。

当時のソ連指導者スターリンは、

「日露戦争の時、1905年(注:明治38年)のロシア軍の敗北は、苦い思い出として我が国に固着していた。国民は日本を打ち負かし、汚点が拭い去られる日が到来する事を信じて待った。四十年間、我われ旧き時代の者はこの日を待ち続けた。そしてついにその日が到来したのだ。」

とその喜びを語っていたのです。ところが…、その昭和20年から、45年後のソ連が崩壊した後に、とんでもない事実が明らかになったのです。なんとソ連軍の死者が、日本軍の死者を上回るだけでなく、戦車の損害、さらには戦闘機の損害まで、ソ連軍が上回る値が出てきたのです。

これは一体…と、何んとも考えられない結果を公表されたと言うのです。では、その中身に触れていきます。
まず、陸上戦線は7月から、対空戦線は5月から、本格化します。
事の始まりは、満蒙国境を越えて、外蒙古軍が侵入した事が理由にあります。この外蒙古軍が何度も侵入しては撤退を繰り返す挑発行為が後を絶たず、攻撃を開始します。結果的に、外蒙古軍の攻撃に、迎撃したのが、第1次「ノモンハン事件」の始まりです。
中でも対空戦では5月中旬に、「稲妻戦隊」と言われた飛行第11戦隊と共に有名となる飛行第24戦隊が、東捜索隊に攻撃を援護する上で、この航空隊は攻撃を開始します。戦隊長である松本さんははじめは、積極的に動こうとはしなかったと言われておりますが、空中による洗浄撮影自体が無理な話だったからで、この後の戦闘は5月22日からとなります。
その哨戒偵察中の3機(所属:飛行第24戦隊)が、敵機10機によって撃墜されると言う事件が発生、此処からハルビンの飛行第11戦隊の第1中隊、第3中隊が、ハイラル飛行場に移動し、探索を開始。
両軍はホロンバイル草原で激突するのです。

とくに5月27日から28日にかけてのホロンバイルでの戦闘では、総計51機のソ連・外蒙古軍を撃墜する戦果を上げます。これでもすごいのですが、6月27日に149機の戦果をあげたのです。

次に、陸上線では、7月から本格的な陸戦に突入します。
7月2日の深夜、後30分ほどで火が変わるころに、世界初と言われる雷雨を突いた夜襲作戦が展開されるのです。ソ連戦車大隊、装甲車舞台などは、歯が立つはずもなく、そのまま退散させられると言うのが、現状だったと言うのです。

ちなみに、この5カ月でどのくらいの死者が出たのかなどデーターを出してみます。3点です。

1. 死者数 日本軍 1万7405人 ソ連軍 2万5655人

2. 戦車喪失故障台数 日本軍 29台 ソ連軍 800台

3. 戦闘/攻撃航空機被害 日本軍 179機 ソ連軍 280機

となっております。
どこからどう見ても、明らかに日本軍がソ連軍を圧倒したと言うのが、日本の勝ち試合だと主張する根拠となるのです。
ところで、そうなるとしたら、ソ連がどうして勝ったと主張するのか。これが、問題となります。

2. ソ連はどうして、勝ったと報じたのか?

この事件の終盤になって、ソ連軍が勢力を盛り返して、日本軍を満蒙国境地域に立ち退かせたと言う事から決着し、結果的にはダメもとで出したソ連案が通ると言う結果となったのです。
結果的には、日本軍の最後の一撃が打てなかったために、持久戦に持ち越され、ソ連の猛攻を浴びたと言うのが真相です。
それは、地上戦闘だけでなく空中戦闘でも同じ事が起き始めたのですが、航空戦闘では9月3日の天皇の攻撃中止命令が出ても、9月15日まで戦闘が続いたそうなのです。
一言でいえば、物資不足が露呈したのが敗因になっているとも指摘されておりますが、空戦の報は別だったようです。
しかし、この地上戦闘でのソ連軍の勝利が、この定説を作ってしまったもとだと言えますが、真相については、まったく別で、最後まで両国とも、強気の交渉が出来なかったのです。
これには、スターリンの「恐日病」があり、また日本にも「恐ソ病」が存在していたからです。
つまり、スターリンはヨーロッパの連合国の国々と第2次世界大戦を戦います。しかし、そのソ連にとって満州に駐留する日本軍(関東軍)は、目の上のたんこぶのような存在だったのです。
それが、このノモンハン事件での被害を聞き、想像以上の恐怖感に襲われたのです。
しかし、日本政府にも、「ソ連は恐ろしい、国家だ」という風潮がありました。これは、当時の軍の中央指令室に当たる「大本営」などの情報収集不足が、拍車をかけると言う事になります。
ただ、この2カ国ではかたずけられない国が、ソ連の隣にまで迫っていました。

3. その背景にはナチスの影が…。

この一件に関心を寄せていたのが、ナチスドイツです。このヒトラーの戦略は、昭和14年9月の第2次世界大戦で現実味を帯び始めます。結果的に、日本はその戦略に翻弄される結果となっていきます。
東ヨーロッパでは、第2次世界大戦後に、共産主義諸国が誕生していきますが、これらも、ソ連のスターリンとナチスドイツのヒトラーによる4年にわたる独ソ戦争が招いた結果であり、それが極東では、昭和20年の「ソ連侵攻」と言う形で、満州が蹂躙されると言う悲劇が生まれる事となります。
それから考えると、ナチスドイツとの戦争と、その後の日本の南進が結果的に影響しておりますが、その一因と言えるのが、この「ノモンハン事件」だったわけであり、南進させず北進に力点を置いていた陸軍の立場は無くなった事もあり、結果的に太平洋戦争へと進む事になります。

4. 昭和史を見直す視点として。

戦後、日本を含む4カ国と、周辺諸国の情勢は大きく様変わりします。昭和24年には中華人民共和国が成立し、明年に当たる昭和25年には隣国のコリア半島で、朝鮮戦争が勃発すると言う事態に陥ります。
それが、ソ連の下で動いていると言う点に触れた、アメリカは朝鮮戦争では国連軍として軍事介入する事になります。

ところで、昭和20年の「ソ連侵攻」は日には、8月8日と終戦のほぼ1週間前であり、ヤルタ会談では「ソ連の対日参戦」を約束したのですが、これにゴーサインを出す事が出来なくなったと言うのです。
その理由として、「ノモンハン事件」の日本軍の将兵たちの奮闘が無ければ、進行するべきかどうか迷わなかったうえ、日本自体が分断されていた可能性があるのです。

これから考えると、この「ノモンハン事件」は実際に、ソ連の対日参戦を遅らせるのに効果を果たしたという事実があり、結果的に勝利ではないと言う事を明白にしております。

被害結果からも明らかな事であり、ロシアの首脳部はこの事実に目をそむけることはできないはずです。
最後に、この言葉で、すべてを締めくくろうと思います。
毒素線でドイツ軍の進攻を退けた、旧ソ連軍の最高司令官G・K・ジューコフ元帥は、戦後のインタビューで、
「自分の軍歴で最も苦しかったのは独ソ戦ではなく、ハルヒン-ゴール(ノモンハン事件)での日本軍との戦いだった。」
と語っています。

つまり、国際社会では日本の立場は80年前と変わらない危うさがあり、その中で、如何にして生きるのかそれが求められていると言えます。そして、何をもとに生きていくのかを問いかけるのが「ノモンハン事件」だと私には思えます。つまり、「歴史とは何か」、この問いを考えると、答えは「現在と過去との対話である」と言う事になります。

私たちは、「今を見つめる糧として、歴史に学ぶ事をしなければならない」と言う事に保管らないのです。

以上です。