歴史のタブーに迫る 第6回:若者の愚が招いた大失策―文化大革命の後遺症におびえる、中国―

本日の「歴史のタブーに迫る」の6回目は、中華人民共和国最大級の大粛清と言われた「文革」こと、文化大革命について迫ります。

本年の5月、突如重慶市のトップであった、薄熙来氏が中華人民共和国の共産党の主要役職を解かれたという報道がなされました。この事件は、殺人事件と絡み、薄氏の不祥事として処理されました。

しかし、その背景にあったのが、とんでもないタブーが隠されておりました。それが、「文化大革命」です。しかも、自分の父親がやっていた事を、今度は…自分自身が受ける羽目になるとは…と彼の中では思っていたのかもしれません。

さて、今回クローズアップする点は4点になります。

1. 文化大革命は避けられなかった事だったのか

2. 旧体制を破壊する革命が、旧指導者側から行われた本当の理由

3. 若者の招いた反革命的な指導者への弾圧?

4. その若者として加わった薄熙来と、その末路から見える、中華人民共和国の危うさ。

としてみます。

さっそく、「文化大革命」の話を始めてみます。

1. 文化大革命は避けられなかった事だったのか

そもそも、文化大革命の発端は、指導者の一人である毛沢東が、林彪氏に、劉少奇国家主席からの政権奪還の指令を出した事に始まります。

しかし、その林彪氏と毛沢東の間に対立が起こり「林彪事件」と言う暗殺未遂事件が起きてから、指導部の大きな変革が起こり、行方不明者などを含めた犠牲者は1000万人以上と推計されております。

さて、「文化大革命は避けられなかった事だったのか」と言うのがありますが、実際に避けられたのかについては、3点ほどの時代背景に、解くカギがあります。

1). 昭和24年の中華人民共和国の建国以来の社会主義建設が不調であったこと

2). 建国の指導者毛沢東が大躍進政策の失敗により政治的に失脚していたこと

3). 中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立

元々、中華人民共和国の思想統制は開始されていたのですが、昭和35年以降になると、中ソの対立が起こっており、毛沢東の崇拝思想が、強調及び強化される事態をもたらす事になります。実は、これをまねたのが、朝鮮民主主義人民共和国の「主体(チュチェ)思想」であり、それが中国で起こったことが「文化大革命」だったと言う事になります。

この事件が避けられなかったのは事実であり、個人崇拝主義は、ソ連および、朝鮮民主主義人民共和国の例でもあったためから、避けられなかった可能性は高いと言えるかもしれません。それに、劉少奇国家主席の自由主義寄りの政策に対しての反発がくすぶっていたことなどがあり、起こるべくして起こったと言うのです。

しかし、他にもこの「文化大革命」には裏があるようなのです。

2. 旧体制を破壊する革命が、旧指導者側から行われた本当の理由

当時の指導部の最高責任者は、劉少奇氏を含む「実権派」と呼ばれる勢力で、昭和25年から34年までの経済政策に失敗後、失脚していた毛沢東とは、一線を画し経済中心、一言でいえば「資本主義を取り入れる」と言う発想をもっていた人材だったと言う事になります。
ところが、それに対して、「資本主義」を取り入れるのはけしからんと考えていた勢力があり、それが、林彪氏及び陳伯達氏、江青氏を含んだ勢力だったと言う事になります。当然のことながら、毛沢東もこの中にいるのですが…。

まさに、市民に絶大的な人気のある英雄毛沢東と、その権力を笠に着た林彪氏及び陳伯達氏、江青氏を含んだ勢力に対して、「実権派」と呼ばれる勢力との権力闘争が始まります。
近年は、「実権派」に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面も指摘されており、江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、毛沢東を含めて「五人組」とする見方もあるそうです。

これは、権力回復を狙う毛沢東と実務路線をとる劉少奇氏との争いという面もあり、さらに、江青としては、権力奪取という見方もできると考えられます。

3. 若者の招いた反革命的な指導者への弾圧?

ここで登場するのが、紅衛兵と呼ばれる兵士です。しかし、この紅衛兵は中華人民共和国の軍人ではなく、特に無知な10代の少年少女によって構成される学生の集まりと言われるものです。
実は、毛沢東はこれに注目したのですが、次第に毛沢東思想を権威として暴走してしまい、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能に陥る騒ぎをもたらします。

そんな中で、昭和43年に、統率不可能だった紅衛兵を農村に送り込む処置で解決させていく事になります。大規模な徴農と地方移送の事を上山下郷運動、または下放と呼ぶようになります。
しかし、この間に高等教育制度(日本でいう高校、大学の教育課程がこれに当たる)が受けられなくなり、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼす結果をもたらしております(日本では、団塊の世代がこれに相当する)。

しかし、それだけにとどまらず、林彪氏が国家主席の廃止案を主張する毛沢東と対立し、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めると言う事態が発生、毛沢東暗殺を企てが露見した昭和46年9月に起きた林彪氏搭乗機の墜落事故があり、林彪氏は毛沢東政権側から消されることになります。そしてその2年後に起きた批林批孔運動は、毛沢東の亡くなる昭和51年まで続き、林彪と孔子及び儒教を否定し、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」として、孔子廟などを襲撃したと言うほど大きなものだったと言うのです。
実は、後々に判明した事では、当時首相として日中国交回復に臨んだ周恩来氏も引きずり降ろそうとしたのですが、失敗に終わり。
また、幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平さんは、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判するなど、後々の文化人や学者たちにも大きな影響を与えたと言う事はほぼ間違いないようです。
最後に、その一人と言われる、薄熙来氏と今の中華人民共和国がどのように映ったのかを、見てみます。

4. その若者として加わった薄熙来と、その末路から見える、中華人民共和国の危うさ。

その中で、紅衛兵に加わりながらも、父親の逮捕などで、投獄された薄熙来氏。その「文化大革命」にも終わりの時期がさしかかっていたころに、中華人民共和国を訪れたのが西側諸国代表であるアメリカのニクソン大統領と、日本の田中角栄首相です。
昭和47年に、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和され始めたのですが、昭和51年に周恩来首相と、毛沢東主席が相次いで亡くなった事を受けて、華国鋒新首相が思い切った手を打ちます。葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月6日、江青を含む四人組を逮捕する事により、この権力闘争は終結に向かったのです。

その5年後となる、昭和56年に、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」と言う評価が下されています。
結果的には、「失敗だった」と宣言しているも同然であり、また、毛沢東の評価も「七分功、三分過」と言う鄧小平の発言が引用されているのが実態です。
そんな中で、平成の世に入り、本年に「唱紅」運動を重慶で展開していた薄熙来氏も、また紅衛兵であった事が指導部から批判を浴びて失脚したことは確かであり、温家宝首相も「文化大革命のような歴史的悲劇が再び起きることを危惧する」と発言するなど、いまだに、文革=中華人民共和国政治最大のタブーと言うのが定着しているのです。
そこで温家宝首相が述べた言葉からも見て取れるように、「中国共産党には派閥はない。一枚板である」という原則が成り立っている。そのためには、分断させるものには容赦なき制裁を加えると言う事から、中華人民共和国の崩壊を防ごうと言う意図が見え隠れしております。

ただ、石平さんの語った「中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と言うのは、その通りと言われるところもあり、大阪の難波などで中華人民共和国からの旅行客が、地元の両親などに、炊飯器などを買っていく姿から考えると、言う通りなのかもしれません。

しかし、こういった中で、中国の分裂に対する恐怖心は、「それぞれ政治に不信を抱く国民」から自らの政府を否定される事だけでなく、「一部異民族が独立する」と言う事等があり、その為に、1人の最高権力者を有する指導部が作られるという閉鎖的な体制を作り上げた温床とみるべき節があります。
それは、一つ物事を誤れば多くの国民を巻き添えにするという危うさを秘めております。つまり、帝国を支えてきた各王朝の末期は、反乱に次ぐ反乱と言う時代であった中国の歴史から見れば、「文化大革命」は起きるべくして起きた事件だったと、私には思えます。

本当の中国の姿は、その先に見えてくるのか、それは、今も謎のままです。

以上です。