京阪旧3000系引退ツアー その9

本日の話題は、「鉄タビ」からいつまで続くのかと言われてしまいますが、京阪旧3000系のツアー9回目です。

さて、ツアーも終盤に差し掛かりました。ここでは、京阪の幻の計画路線についてお話します。
と言う前に、寝屋川車庫動画の後編をお楽しみください。後編は洗車場所に足を踏み込みます。
京都と大阪は、昔から交通の往来の激しい地帯で、その中でも京街道、西国街道の沿道に城下町、宿場町が整備され、その代表格として、大阪、高槻、淀といった地域が城下町として、枚方、茨木などが宿場町として発展してきました。
その沿道を走る2本の路線、その中で、実は後に中京地方と関西地方を結ぶルートの一つに選ばれたと言う話があります。
はて、何の事なのかと思われる方が多いのかもしれませんが、それは…、
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現在の阪急京都線の区間が、その対象となるのです。
昭和の初めごろ、建設された新京阪は大阪と、京都を直線的な形で、建設された路線ですが…。その最終目標は、この様なものになっていました。

大阪京都滋賀岐阜愛知

この5都市を結ぶ路線を、建設すると言う事を考えていたのであります。だからと言って、これに手ごわいライバルがいたのです。それが、
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近鉄こと、近畿日本鉄道のルートです。この当時は、関西急行鉄道と言う会社名でした。

そのルートは、次の通りです。

大阪奈良三重愛知

それこそ、現在の近鉄大阪線と名古屋線となります。ところが、この滋賀ルートは、建設が出来なくなったのです。

その理由は、3点ほどあります。

1点目 ルートの建設には、峠越えを要した事。

2点目 建設資金の収集ができなかった事。

3点目 主な観光地点を補完できる路線がなかった事。

といった点が挙げられます。

3点目は、京都府の中であれば観光地が確保できるのですが、滋賀、岐阜各県で有名な観光地が、その計画沿線から離れているか、規模が小さかった事があげられます。
1点目には鈴鹿峠などの峠が控えていた事です。
しかし、一番大きな障害となったのは、資金難です。これは、建設した時の経済情勢が関わっております。

昭和ひとケタ台の昭和4(1929)年、アメリカ合衆国のニューヨークを震源とする世界恐慌が発生し、それが日本に飛び火したのです。
その結果、経済が急速冷凍状態(この言い方は変ですが…例えて言うと、そういう事です)になってしまったのです。

それゆえ、堅実に路線を建設していた近鉄ルートが、採用されるのです。
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それで、現在に至ります。
しかし、新京阪が計画したルート自体は、一部が新幹線ルートの前身となる「弾丸列車」構想でつかわれかけたのですが、戦後の東海道新幹線では、関ヶ原ルートを採用するも、そのルートに沿った形で建設される事になります。

結果的には、大阪と京都を結ぶ路線として、阪急に組み込まれた新京阪と、京阪は、戦後ではライバル関係として、推移する事になっていくのです。

と言う事で、第10回目(最終回前夜祭)は動画を2本立てにして、その間の京阪と京阪旧3000系とでっとヒートを繰り広げた車両を紹介したいと思います。

それでは、次回をお楽しみに。