志摩風と長谷寺へ 7―長谷寺にて

本日の話題は、「鉄タビ」から臨時便の第7回目、ロングランとなっているのですが、さっそく始めましょう。

さて、時刻は午後2時近く、昼食も食べないまま、長谷寺に来た私は、たまたま、同じ長谷寺に行こうとしていた女性と、道を歩いておりました。
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車(父親の運転で)でしか訪れた事のない私は、初めてその周りの町並みを見て、駅と寺との道のりが長いのと、長閑な風景に新鮮な思いをかみしめながら、歩く事になりました。
その神奈川県からはるばる訪れた女性は、まだ大学2回生のようで、関西は初めてというようです。

さて、この長谷寺は、「花の寺」として知られております。その理由は、牡丹の花の名所として、長谷寺が建立された場所にあり、その一帯を初瀬山に4月から5月にかけて(本当を言えば、今頃からゴールデンウィークに当たる時期)、150種類以上7000株と言われる花が満開になると言うところからきているとのことだそうです。
実は、古典の『源氏物語』『枕草子』などにも登場する寺で、創建は奈良時代から平安時代前期にかけてとされております(伝説の域を出ない部分も存在するために…正確な創建年代は不明とさせていただきます)。
正式な記録に長谷寺の名前が出てくるのは、平安時代前期の承和14(847)年の事で、朝廷から「定額寺(国家の管理下に置かれてお寺のひとつであるが、起源には諸説があり、定かではない)」として認められたという記録からだそうです。

実際には、平安時代の中期から観音霊場のひとつとなった事で知られるようになりますが、元々は華厳宗の東大寺(奈良県奈良市)の管轄下におかれ、その後、法相宗の興福寺(同じく奈良市)に管轄が変更となり、天正16(1588)年には、根来寺(和歌山県岩出市)の僧侶が、この地に逃れ居候、そして現在の真言宗の寺院として、現在にいたっております。
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さて、私たちは、その伽藍に入って、その様子を見てまいりました。
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実は、太閤桐の紋がありますが、これは豊臣家の家紋で、次にある丸い輪が長谷寺の家紋と言う事になります(寺紋でしょうか?)。ここを入って中に、長い階段を上っていきます。お隣の女性の方は、長谷寺の伽藍のイメージからは想像できない厳しさに、音を上げている状況だったようです。
まあ、
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伽藍には、梅の花及び、桜の花が植えられていて、まさしく「花の寺」にふさわしい情景でした。
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ちなみに、江戸時代に後期に当たる寛政10(1798)年に小林一茶も、この長谷寺を訪れ、画像の俳句を残しております。
そして、本堂(正堂)からのパノラマは、まさに圧巻の一言に尽きますが、
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ここまで来て、この様な景色が見られるとは、思いもよらず、女性のお方も、感嘆の声をあげていたようです。
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実際に長谷寺を後に、2人で伽藍の坂を下り、長谷寺駅に戻ると、私は大阪方面へ、女性のお方は、大和郡山を経由して法隆寺に向かうと言う事になり、途中の大和八木駅まで一緒に行く事となりました。
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その列車が来るまで時間があるために、鉄道に関しての話をしていたところ、突然22000系の賢島駅行き特急が通過していきました。
私たちが乗る列車は、大阪上本町駅行きの区間準急であるために、時間を待つ事になりました。

後の事については、「8」にてお話します。以上です。