ロシア兵士は、日本に骨を埋める 01

本日の話題は、2本あります。1本目は一昨日に予告しておりました「鉄タビ」からです。

その話をする前に、今回はプロローグとしてこの話を始めます。
実は、今から出す地図をもとに、この話を進めていきます。

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大阪府の中で、堺市の浜寺地区から南西にわたり高石市まで続くあたりに、明治の一時期ですが、ロシアの兵士が、暮らしていたという記録が残っております。
この旅の発端は、ここから始まりました。そこから南西に少し入ったところに、泉大津市があります。その場所に、亡くなられたロシア兵の墓地があったのです。

皆様は、「いったい何のために…?」と思われたかもしれません。
その話を、始めます。今から話すのは明治37年から38年にかけて、日本とロシアが行った「日露戦争」にあります。

明治37(1904)年2月8日午後4時40分、場所は現在は大韓民国の仁川において、日本の巡洋艦艦隊(装甲巡洋艦「浅間」という艦船を旗艦としていますが、現在でいえば駆逐艦に相当します)が2隻のロシア軍所属艦船(砲艦と呼ばれます。この種類の艦船は現在では存在しておりません。あえて言うならミサイル小型艦艇が当てはまります)と交戦から1年にわたる戦争がはじまります。

そんな中、戦線は現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国からさらに北側に位置する中華人民共和国の遼寧省、吉林省などを舞台に展開。中でも今も戦略拠点軍港と中華人民共和国政府が位置づけている旅順攻略戦線は、終結までに半年を要した最大の作戦で、乃木第3軍司令官の元、死闘を繰り広げたのはあまりにも有名です(ちなみに、これに関しては、「今夜が最終回『坂の上の雲』、しかし…。その1」にて触れておりますので参考になさってください)。

実は、この浜寺にロシアの兵士が暮らすという事態は、この旅順攻略と大きく関係します。
それは、旅順攻略で捕虜となった兵士たちを先頭区域内で強制収用することは、ほぼ不可能であったことから、日本内地(当時の言い方ではこうなります)に大規模な施設を建設する必要性を迫られたというのが実態でした。
結果的に、近畿圏内では早くも福知山、姫路が旅順攻略以前の戦闘で、捕虜となった兵士たちを収容したのですが、戦線の激化と北上などによって、堺の浜寺、高石、高師浜を含む一帯と、大阪、京都に捕虜収容施設または、それに準ずる捕虜収容準備施設が建設されたというのです。
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さて、ここで再び地図に戻りましょう。では、その中で、いったいどういうことが起こったのか、日本との交流はどうだったのか…。それをめぐるのが、今回の旅となります。

まず、私はバスで、泉大津駅まで行ったのですが、本当を言うと、ここを素通りして海側に出ました。目的地は泉大津市民墓地です。

その前に、墓地の入り口まで来たのですが、墓地入り口の花屋で、道を尋ねてみたところ、北東側にいったん上がってから、左に曲がるとあると教えられました。
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まず、これが全体像です。奥に見えているのが泉大津駅の駅ビルです。
ここで、注目していただきたいのは、墓の形です。皆様、よく見てください。

墓石の高さも厚さも大きく異なります。手前に見えるロシア兵の墓地の墓石は、低く、薄い、まるで石板みたいな墓石であるのに対し、日本の墓石は高く厚い墓石であることが一目瞭然です。

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では、全体像で詳しく見ると、こんな感じです。

しかし、墓地がなぜできたのか…という問題に突き当たりますが、その浜寺公園の近くに捕虜収容施設を建設した日本政府…、といっても最初はテント張りの施設で、捕虜の収容を開始し、のちに木造のバラック小屋を建てて収容をしておりました。

当然のことながら、収容当時(つまり明治37年から38年にかけて)は、多くの人種が入り乱れて(現在もそうですが)兵卒になった例が多く、思想も様々で、多種多様性がうかがわれるところが大きかったといいます。
しかも、この収容所では、鞄、靴類の技術が日本に伝えられたという文化交流、産業交流の場としても活用され、このほか、日本文化に触れたいという一部のロシア兵が、「日本語」講習を受けるという一幕もあったそうです。

一方では、その思想の違い(この当時、のちのソ連につながる「ロシア革命」の機運が高まります)から、施設内暴動がおこるといった危険性も高い上、落雷などによるバラックの延焼で、死者が出るといった事態が出たことなどから、90名近くのロシア兵捕虜がなくなったと記録されております(正確な情報は『日露戦争の裏側 ”第2の開国”日本列島に上陸したロシア軍捕虜7万人』{著者:大熊秀治氏}を参照してください)。

実は、それを助松村(現在の泉大津市助松)が遺体を引き取って埋葬したということです。

さて、話はこのくらいにしておきます。ということで、「02」からは、個別の写真と、以前紹介した日露戦争関係の記事を焦点に、話を進めます。

それでは。