ロシア兵士は、日本に骨を埋める 02

本日の話題は、「鉄タビ」から、昨日から続きで「ロシア兵は、日本に骨を埋める」の2回目です。

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さて、このロシア兵士の墓地ですが、どうしてここに来たのか…。実は、図書館で借りた書籍がきっかけでした。
その書籍は、『日露戦争の裏側 ”第2の開国”日本列島に上陸したロシア軍捕虜7万人』という書籍です。そこに書かれていたことから、この場所を訪れようと決めたのです。
日露戦争では、この浜寺などを含めて全国の9地域に、10か所以上の捕虜収容施設が建設されました。

最初は、四国の松山から始まり、そのあとで姫路と福知山などに施設が建設されて行きます。そこには、戦争中に戦争捕虜を受け入れることで、地域経済が活性化されるという構造(どこかと似ている構造だと思いませんか?)があったといわれております。

さて、浜寺では、明治38年1月に、日本陸軍第4司令部より施設設置が決まった後、高師浜地域(現在の高石市高師浜地区)に4区画に分けて、木造バラック宿舎に2万8000人が収容されたのです。
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そのうち、病気で亡くなったり、事故死した捕虜の方を、葬っているという場所でもあるのです。
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その数は、89名に上ります。
しかし、中には外国の文化に触れたくて、実際に外出(集団外出)許可が降り、そのまま散歩にも出ることができたそうです。
ちなみに、同じく、浜寺以外の捕虜収容所の中で、格別の待遇を受けたのは東海地区の静岡だといわれております。
そこには、将軍級といわれる将校が、徳川氏が江戸時代に保有していた屋敷をホテルに改造していた場所が、捕虜収容場所として選ばれていたそうです。また、外出に関しての記事では、名古屋と仙台党であった例として、ロシア兵捕虜が、外出許可を受けて繰り出し、歓楽街に出て遊郭(現在で言うとかなり多様化するが、風俗店をイメージされるとわかりやすくなります。一番近いのは「ヘルス」ということになりますが)通いをする捕虜まで出るなど、その点でかなり話題をさらっていったそうです。
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ところで、日本の対応はどうなったのかというのですが、経済的な理由で、受入れを行った10以上の都市では、もちろんのことながら反対運動が起きたのも事実でした。しかし、ある都市では、地域の中での対抗心で、立候補したところもあり、また、押せ押せムードの状態で、立候補したところなどさまざまでした。

たとえば、その地域の対抗心があって立候補したのが豊橋市です。
「なんで?」と思われる方が多いかもしれませんが、そこには、廃藩置県から30年近くたってもなくならなかったお国のプライドが生きていたのではないかと著者の大熊秀治氏は分析しているとのことです。
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さて、中心にそびえたつ塔にはロシア語で、
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「死せるロシア兵士たちへ 旅順港の戦友より 1905年」と書かれてあります。
昨日の記事でも触れましたが、実は日本に、鞄や靴の技術(今でいう革のなめし技術など)を日本の職人が学んだといった話も残っています。
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しかし、明治39(1906)年にロシア兵士たちは母国に帰国。
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しかし、この89人は、母国に帰ることはなくこの場所に眠っております。

その墓には、写真が添えられていたものもありました。その人の性格がわかるような、本当は、いい人たちだったのではないかと、そのように思えてなりません。

遠くに恋しき故郷で…家族、または恋人、大切な人たちが待っていたはずなのに…。そう思うと、この場所が、彼らにとっては、望郷の場所に見えてなりませんでした。

ところで、この浜寺捕虜収容所のみの話で、収容所から帰国した後、再び日本の地に根を下ろした一人の男性と、その家族のお話、さらにその男性の終焉の地を訪れてます。それは、次回「03」と「04」でお話しします。

お楽しみに。それでは。