ロシア兵士は、日本に骨を埋める 04

本日の話題は、2本あります。1本目は「鉄タビ」から、2本目は、「歴史もの」からです。

では、始めます。
さて、S氏と共に、旅を再開しました。
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実は、大阪難波駅の西隣駅である桜川駅から出発です(画像は6月23日に撮影した大阪難波駅です)。
列車は三宮駅行き快速急行快速急行)で
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9820系9824編成で運転されておりました。列車は、二人を乗せて桜川駅から西九条駅までを走り、
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尼崎駅(画像は9820系9828編成)、
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武庫川駅(画像は5800系5804編成)、
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甲子園駅(画像は1026系1027編成)、今津駅、西宮駅、芦屋駅、魚崎駅を経て30分ぐらいで三宮駅に到着。
そして、三宮駅から、地上に向かってバスに乗り込み、目的地を目指していきました。

目的地は、「神戸外国人墓地」という場所です。

実は、日露戦争後に、実際に日本の町に定住し一生を終えた男性の方がいます。そこには、意外な企業の名前がかかわっております。
昭和56(1981)年、神戸ポートアイランドが造成されたまさにその年、元ロシア兵が亡くなりました。御年101歳。名前は、セルゲイ・タラセンコ、どうして、彼が神戸の土地で息を引き取ったのでしょうか。
その男性は、どうしてこのような運命を歩んだのでしょうか。

実は、今から8年ほど前に立命館大学のシンポジウムで、ピョートル・ポダルコ(青山学院大学助教授)氏は公演を行っております。その公演をもとに、話を進めましょう。
それによると、セルゲイ・タラセンコ氏は、明治13(1880)年に、現在ウクライナ共和国に当たる南ロシア地域ヘルソン県生まれで、明治37(1904)年当時は24歳です。開戦当時は、関 東区 要塞砲兵第6中隊に所属しておりました。
その当時のロシア関東軍が集中していたのは、あの旅順です。その旅順要塞の攻略時に、ロシア側として戦線の表舞台に立った彼にとって、まさに運命という悪戯がここまで作用するとは思っていなかったのかもしれません。
旅順陥落後、捕虜となったタラセンコ氏は、似島(広島県)で検疫を受け(当時のロシア捕虜は似島で検疫を受けておりました)、大阪を経由して、大阪の天下茶屋駅から南海本線の浜寺駅まで列車に乗車したというのです。
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この天下茶屋駅(画像は7月21日)から、
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浜寺公園駅まで、揺られてやってきたのです。

そして、そこで1年にわたる定住で、大きく変わります。捕虜の帰還と、本国からの一時的な資金により、極東(ウラジオストクなどを指します)に露店を立ち上げます。
その露店商売は、ロシア革命(大正5【1917】年)で、中国(当時中華民国)のハルピンに拠点を移します。その後、大正8(1920)年以降は日本にもたびたび顔を出すようになります。これが、のちの移住を決定づけたのかもしれません。
時代が大正から昭和に変わり、昭和5(1930)年以降は、活動拠点を大連に移して、商売を続けます。しかし運命は残酷でした。
それから19年後に当たる昭和24(1949)年10月1日、毛沢東の率いる中国共産党が、国共内戦(第1次が昭和5{1930}年の「上海クーデター」から、昭和11{1936}年8月1日の「8.1宣言」まで、第2次が昭和20{1945}年から昭和24{1949}年まで)に勝利し、中華人民共和国となると、タラセンコは家族とともに、中国を離れるという決断をするに至ります。

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実は、この神戸に降り立ったときに、奇跡が生まれるというのです。その軌跡は、あのカスタードプリンと、レアチーズケーキを販売する。企業がかかわっております。

その話は、「05」に譲ります。

ということで、以上です。