関東大震災90年目の真実 上

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から、衝撃の話を始めます。

現在公開中の映画で、多くの感動をさらった「風立ちぬ」。その中で、喫煙シーンの多様問題が話題となったのは、ご記憶の方も多いと思います。その中で、意外に見過ごされているシーンがあることをご存知でしょうか。
予告編でもちらっと出てきたのですが、関東大震災のシーンです。

大正12(1923)年に相模湾付近で起きたマグニチュード7.2クラスの地震と、その後に起きた大火災旋風が起こったとされておりましたが、実は近年の研究で、とんでもない事実が浮かび上がってきました。
実は、当時からの定説では、直下型地震と関東大震災は伝えられておりました。しかし、最新の研究が解き明かしたのは、意外な事実でした。当時、東京帝大(現在東京大学)助教授であった今村明恒氏が想定した最悪の被害想定は、

死者:10万5千人
家屋倒壊および破壊:10万棟
…(ry)

です。実際に想定通り、または想定以上となりましたが、なぜそうなったのか、直下型で建物は貧弱で…というのではなかったからです。

実際の出来事を順に追っていくと、わかってきます。

大正12(1923)年9月1日午前11時58分。昼を回る少し前のことです。学校は始業式ですから、子供たちの多くが家にいるというところです。そこに、相模湾の足柄付近、地下80キロでマグニチュード7.9(実質8クラス)の地震が発生したことに始まります。
しかも、実質マグニチュード8クラスの地震が起きたのに、直下型と今まで信じられたのは、実際に陸地に近いところまで、プレートがあったという報告がなかったことなどが影響していると、考えられます。
ところが、この付近にまでプレートが沈み込んでいたのが分かったために、プレート境界性地震である事が近年の調査から明らかになってきました。

では、マグニチュードは一体どうして、7.2となったのか、この直後に起こった地震と関係があります。
東京湾の川崎付近で3分後に発生した余震です。
この余震のマグニチュードは7.2でした。これを本震と間違えた可能性があります。しかし、貧弱な建築物が所狭しと並んでいたのは事実であったようです。そして、お昼時というのが、不幸にも被害を拡大させる結果をもたらしたのですが…。それはまた別として譲ります。

そして、この余震の後に、合計4回ほど余震が続き、地震発生から4か月後の大正13(1924)年の1月に、神奈川県中部で地震が発生して終息したのです。

さて、先ほどちょこっと触れたのですが、この地震は直下型ではなく、プレート境界型の地震ということが明らかになったと述べました。なぜ、境界型の地震なのか。
実際に、日本列島は4方向のプレートが折り重なる境目にできた、浮島のようなものです。関東地方には大陸にあるユーラシアプレートと、海上からのフィリピン海プレートが重なる地点にあります。そのフィリピン海プレートが、関東地方南端にあたる神奈川県の相模湾沖と、房総半島先端に沈み込んでいること。
そのほかに、海底火山などが活発化していることなどが、あげられております。ここ近年でも伊豆半島で群発地震が多発しているのは記憶に新しいところです。

次に、関東大震災の揺れに対して、建物の強度はどうだったのでしょうか。実は、当時東京には駅を含め多数のレンガ系の建物が数多く立ち並び、横浜にも倉庫街に代表されるレンガ造りの建物はありました。ちなみに浅草では、現在の東京スカイツリーと同じランドマークとして「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣がありましたが、中ほどの8階より上の階が倒壊したうえ、レンガによる耐久性は、この震災によって限度があると判定され、徐々に鉄筋コンクリート建築物が建設されるにいたるのです。
そのほかにも、液状化現象、がけ崩れなどが多発。鉄道車両の脱線事故などが起きたの事実です。

しかし、

地震学者の中には、この関東大震災の脅威はまだ続いているとみている方が多いそうです。それは一体、どういうことなのでしょうか。

次回は、火災旋風の恐怖と、不気味なプレート境界の予兆について、お話します。