18400系ラストラン! ―40年を駆け抜けたある車両の生涯― 09

本日の話題は、2本あります。最初の記事は、「鉄タビ」から、「18400系ラストラン! ―40年を駆け抜けたある車両の生涯―」の第9回です。

イメージ 1
私と、たんば4号氏で青山町駅行き急行に乗り込みました。
さて、解説に戻りましょう。昭和50年に入った国鉄は、赤字経営に転落した中で、新幹線を博多駅まで開通させたのですが、特急の運用が変更されます。
岡山から博多駅に開業したあと、特急が登場したのです。
九州からでは、三大幹線と言われる、鹿児島本線、日豊本線、長崎本線に看板特急が表舞台にたったのです。。鹿児島本線のエースは「有明」、日豊本線のエースは「にちりん」、長崎本線系統のエースは「かもめ」「みどり」(両方共復活組)となったのです。
その列車を中心に、夜行列車も再編されていきます。実質上夜行寝台特急のエースだった「あかつき」は長崎、佐世保方面の特急となり、一方、鹿児島方面と山陽本線や高寝台特急のエースは、3年後輩に当たる「明星」に引き継ぎ、他に東京方面から東北・信越・北陸方面を走る特急、関西から北陸・東北方面の特急の運用増強に車両たちは当てられます。
その中で、近鉄でも、昭和50年に最後の単線区間だった大阪線青山峠付近の複線化完了し、徐々に対新幹線迎撃態勢を着実に整えておりました。実は、この昭和50年11月に入って全国にも波及する大ストライキが起きる事態に、この上に、料金値上げが何度も続き、結果として、料金が安くなっていた近鉄に流れてきたのです。
そこで、昭和55(1980)年に登場した都市間特急及び汎用特急車両として12410系と、2年後には京都・橿原線置き換え汎用特急車両12600系が登場します。
イメージ 3
クリックすると新しいウィンドウで開きます
この2形式は、名阪特急復活の切り札となります。
名阪特急はこれを契機に、新型車両としてデビューしたのですが、これでも新幹線の優位性は、変わりませんでした。しかし、昭和63(1988)年になると、30000系に代わる名阪甲特急エースが誕生します。それが、
イメージ 4
この白さ、そして、オレンジの帯を巻いた貴公子、そう対新幹線迎撃専門特化型名阪甲特急専用車両21000系通称名「アーバンライナー」でした。
この車両は21000系の「アーバンライナー」としてデビューし、合計10編成、66両が生産されたのです。
イメージ 2
これにより、名阪、阪伊、名伊の各特急で威力を発揮してきた30000系ビスタカーは(実は、この時期は名阪甲特急なども運用していたことがあります。ちなみに、運用を完全に譲ったのは平成に入った平成2(1990)年です)、名阪甲特急の運用を離脱し、名阪乙特急の運用と、阪伊、名伊の甲乙特急運用に徹します。
平成に入り、車両の老朽化と戦いながら、第一線で気を吐いていた車両の引退も近づいてきたのですが…。それについては「10」にてお話します。

さて、無事に青山町駅に到着した私と、たんば4号氏は、そこで到着を心待ちにしてた8200氏と合流。私とは初顔合わせだったために、お互いの自己紹介をいたしました。
休日の昼下がり、それを主役の到着を待ちつつ、打ち合わせを行い、どうするのかを感がていきました。とにかく、時刻を確認しどの時間帯で、青山町駅を出る急行に乗っていくかを調べて、撮影会を終了する前に、出発ということで手を打ちました。
その場所は大和八木駅と予定したのですが、どうなったのかは、これからの展開でわかってきますので、あえて言いません。

それでは、「10」に飛びます。