桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ 06

本日の話題は、2本あります。最初の記事は「鉄タビ」から「桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ」の第6回です。
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さて、吉野の旅の2回目なのですが、実は吉野地域は、前回の触れたのですが、あまり耕作ができる土地ではありません。主にそば、そういったものが主食となる土地でもあります。
イメージ 2さて、歴史では、吉野はどういった位置にあったのでしょうか、角川書店発行の『歴史辞典』によると、平安時代の初期に金峰山寺(前回は金峯山寺は誤りです。申し訳ありませんでした)の建立が開山の起源となります。
しかし、役行者こと役小角が活動していた時代とは100年どころか150年程の開きがあります。
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では、鎌倉時代ではどういった形で、表舞台に出るのか…。その話を始める上で、キーとなる史料書籍があります。それが、『太平記』です。
なぜなのかといいますと、この『太平記』の中に、吉野の地名が重要な場所として現れることになります。
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時は、鎌倉時代後期、幕府の実権を握っていた北条氏の勢力が、衰えてきたことを見計らい、皇族が政権奪還を狙う動きを見せ始め、その中で、楠氏とその一族が、千早郡や河内地方で暗躍することになります。
その抵抗の拠点が、吉野だったのです。そして、その吉野に立てこもって活動していた人物が、大塔宮という愛称がある護良親王です。
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この護良親王は、かなりの過激派ですが、その過激さが、歴史を動かす原動力となりました。
しかし、護良親王は室町幕府の創始者、足利尊氏の手にかけられて命を落とします。そして、建武年間(1334~1336年と1336~1338年に分けて考えるのが一般的です)に政務を取り仕切った後醍醐天皇が、都落ちして南朝を立てたあとも政治の舞台となり、60年もの長きにわたって、戦争が続く混沌とした「南北朝時代」に突入していったのです。
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しかし、60年も続いた戦争に終止符が打たれたのは、足利義満の時代となる元中8(南朝)・明徳3(北朝){どちらとも1392}年に入ってからです。
結果的には、数々の守護が、北朝と南朝に分かれて戦闘に明け暮れた時代となったのは言うまでもなく、人々の願いを託したために『太平記』という小説が出たのではないかと推測する学者もいるくらいです。イメージ 7そうした中で、蔵王堂が見えてきました。現在仁王門が大改修工事を行っていたのですが、その下をくぐり抜け、
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伽藍に入っていきます。その前に、このパノラマ画像をご覧下さい。
イメージ 9そして、蔵王堂に入っていきます。狭い場所に建立された大きな建物、この姿は壮観と言うべきでしょう。

では、次回「07」では蔵王堂をご案内します。それでは。