桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ 07

本日の話題は、2本あります。最初の記事は「鉄タビ」から「桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ」の7回目となります。
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さて、蔵王堂に到着した私たちですが、以外にも参拝のお客様は少なく、スムーズに参拝できました。
イメージ 2実は、昨日の『太平記』に関する話には、続きがあります。実は、御所が置かれていた場所を舞台に、足利尊氏と忠義の兄弟が、戦乱を繰り広げた「観応の擾乱」でも舞台となってしまいます。
室町幕府内の内部抗争が勃発し、その抗争に敗れた弟足利直義が、再起をかけて戦った(真実は、担がれて戦線を指揮した)戦争でした。その拠点として、吉野に直義が立てこもったのですが、今度は兄の尊氏が、吉野を拠点とした南朝と手を組んだために、今度は構図が逆転、その中で、室町幕府の創成期に活躍した高師直が、暗殺されるなど数多くの犠牲が出てしまいます。
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その後、室町期に入ると、吉野はその混乱から立ち直り、表舞台に立つのは戦国時代以降になります。まず、桃山時代に入ってからになりますが、全国を統一した豊臣秀吉が、吉野の花見を敢行したことにより、吉野山の桜に魅せられ、醍醐寺に桜の花を移植して、「醍醐の花見」として発展します。
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江戸時代に入ると、吉野紙として全国に知られるよになります。この和紙は、将軍の鼻かみ用の髪として献上されていたそうです。つまり、高級和紙として、一定の評価を得ておりました。なお、吉野和紙は現在でもその名前が知られております。
そして、もう一つは、
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また、修験道の聖地の一つとして、後々、世界文化遺産に登録されることになりますが、それは後ほどに回します。
その後、明治維新後の話になりますが、現在のように大阪からのアクセスが良くなったのは、大正年間に入ってからになります。大正元(1912)年に吉野鉄道が開業したあとに、大阪鉄道湊町(JR難波)駅から吉野口乗り入れの直通列車を走らせていました(この時には、まだ六田駅までしかなかったそうです)。
現在の吉野まで路線を延伸させ、現在の南大阪線と乗り入れたのは昭和4(1929)年となりました。
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現在、急行では大阪からの所要時間は2時間ほど、
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方や、特急では大阪から1時間はんで到着するようになったのです。
さて、蔵王堂の話に戻ります。
蔵王堂は、そのんな歴史を山の上で見てきたのですが、祈祷を大切にする文化が根付いているという印象があったような感覚を覚えます。
イメージ 10イメージ 11イメージ 12イメージ 13そうこうしているうち、祈祷を行っていた人たちが、仕事を終えて、戻って行きました。

内部をご紹介できませんでしたが、「蔵王堂」の感想に関しては、荘厳で、まさに何かに包み込まれるような感覚に、陥ったのを覚えております。
まあ、歴史に関する話に時間を取られましたが、「08」では、その周辺の写真と、「蔵王堂」の本体について、解説していきます。それでは。