桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ 08

本日の話題は、2本あります。最初の記事は「鉄タビ」から、「桜咲く? 吉野のめぐる初詣タビ」ですが、まだ金峰山寺にいます。

さて、ここからは金峰山寺についての説明も加えていきます。「金峯山寺」とも書くのですが、修験道の宗派が「金峰山」となりますので、こちらでご説明させていただきます。
イメージ 1蔵王堂の説明から始めます。ここで、「吉野山」についてですが、実は吉野地域の総称であり、山に「吉野」とつく山がありません。この地域自体が、役行者の時代に開山されたのは、「06」でお話しました。
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しかし、金峰山寺は、それから150年の年月が経っていたと言う疑問が残っております。
7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれた役小角が、葛城山(現在の金剛山葛城山)で修行しています。しかし、この「吉野山」だけでなく、役行者開創を伝える寺院が数多く存在しています。また、『続日本紀』の文武天皇3(699)の条では、伊豆に流罪となったという記述があります。
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そのために、寺院自体の草創期を記した正確な事情がわからないどころか、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳というのが本当のところです。
では、「蔵王堂」は一番興隆したのは、どの時代なのか、それを解くのは平安時代になります。
そこには、空海の真言宗が関係します。
京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝上人が、再興したと言われているのですが、これが役行者が開山した年から下ること200年程になってしまいます(役行者が開山したのは、7世紀と推定すると…)。
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そののち、浄土信仰及び末法思想が都に根付くと、多くの政治家、皇族が吉野参詣を行うようになります。結果的には、代表的な人物を書き出すと、宇多帝、藤原道長、白河上皇がおりますが、特に藤原道長は、蔵王堂の近くに経塚を建立されております。
イメージ 5中世に至ると、天台宗を母体とする「本山派」、真言宗を母体とする「当山派」に分かれていきます。結果的に「本山派」は、活動範囲が熊野地域(熊野本宮大社一帯とその近くを指す)となっており、「当山派」は吉野一帯、いわゆる吉野から高野山を含む地域で活動をしていたのです。
しかし、結果的には、慶長19(1614)年の天海僧正の学頭就任により、天台宗傘下に入ります。
イメージ 6明治維新直後は、「廃仏毀釈」の波をかぶることになります。明治7(1894)年には金峯山寺自体も廃寺となる打撃を被ります。その後、修験道は天台宗の手で復興され、さらに寺院自体も復興に向かいます。しかし、この時点で蔵王堂自体が、「大峯山」の総本山となり、修験道自体も天台宗から昭和23(1948)年に独立していき、現在の名称「金峯山寺修験本宗」に解消したのは、それから4年後の昭和27(1952)年に至ってからです。
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結局、独自の宗派となったのは、戦後に至ってからというのですが、それでも70年近く大峯山地域を活動拠点にしていたのが、世界から評価され、高野熊野霊場と共に、「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産に登録されることになります。
イメージ 8この「吉野地域」には、「蔵王堂」を含め、代表的なもので計7寺社が存在します。吉水神社如意輪寺竹林院桜本坊喜蔵院吉野水分神社金峯神社がそれです。実は、私たちも、後でその寺社のうち、4箇所を訪れます。
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で、吉野の話で忘れてはならないのが、和菓子です。
「えっ、なんだったっけ?」と聞かれるかもしれませんが、「葛」です。
その「葛」は何かというのは、後ほどにして、蔵王堂の情景の後半部分をご覧頂きましょう。
イメージ 10実は、蔵王堂には稲荷神社があったり、平安時代から幕末にかけての1000年程を、神様と佛が同居する「神仏習合」の時代に入っておりました。
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次は、厩ではなく、神楽舞台だと思われます。こんな隅っこに置かれているのは、理由があるのかもしれません。
それでは、次回「09」はそのあと訪れる吉水神社周辺について、お話します。それでは。