高野山愛の旅 10 金剛峰寺を改めて語る後篇。

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「高野山愛の旅」の第10回ですが、今回も「金剛峰寺」に関してです。

さて、「金剛峰寺」のことについてですが、前回までは、3年前の旅との話を軽く触れただけでした。
イメージ 1
今回は、この「金剛峰寺」の説明補足ということで、お話ししていきます。
そもそも、「金剛峰寺」のあたりを弘法大師空海上人が選んだのはなぜか、『Wikipedia』でひも解くと、若かりし頃弘法大師空海上人が修行したことがあったという経験、それから、高い峰に囲まれ下界からも隔離されていることから選んだという指摘がされております。
山上に曼荼羅世界を現出しようとしたという考え方からか、この場所を選んだのかもしれませんね。
開山の翌年から、弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったのですが、今もそうですが、当時は交通不便な山中のことで、なかなか工事ははかどらないという状況にありました。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存しないものも多くなっています。それは、現存する建物の創建年代からも明らかで、
果ては、明治期、昭和に再建されたといった記述があるものも…。ほかにも歴史的な舞台としても、知られている建物が多いのも特徴といえるかもしれません。

少し横道にそれましたが、弘法大師空海上人の入定後、真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備したのですが、東寺(教王護国寺)との対立、落雷による大火で、消滅に近い状態で衰退する結果となります。
(掲示画像:八大童子像のうち(左より)制多伽童子、矜羯羅童子、恵光童子、恵喜童子『Wikipedia:金剛峰寺』より)
しかし、平安時代中期の11世紀、長和5(1016)年に至って、22年の歳月をかけて(落雷による大火は正暦5【994】年に当たるため)寺院再建を行い、その後、権力者の藤原道長や、白河法皇および息子の鳥羽法皇の参詣、さらに武士たちの寄進などによって寺領を拡大するまでに至ります。
中でも、高野山で出家する貴族や武士が目立っており、西行法師もその一人として数えられております(高野山に西行が庵を営むようになったのは久安4(1149)年のこと)。
(掲示画像:八大童子像のうち(左より)清浄比丘、烏倶婆?童子、指徳童子、阿耨達童子『Wikipedia:金剛峰寺』より)
しかし、戦国時代に立場は一変し、最大規模の戦国大名織田信長に「旧体制」と決めつけて、攻撃対象となってしまいました。天象10【1582】年の「本能寺の変」で織田信長が倒れた後、豊臣秀吉との攻防の上で、木食応其のとりなしで服従すると宣言したあとは、高野山の復興援助を得、秀吉は高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興に当たらせる口実を得たために、そのあとの政権である徳川政権も、高野山を菩提所と定めたこともあり、諸大名を始め多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを建立させたため発展して、現在に至るのです。
(掲示画像:八大童子像のうち制多伽童子)
そういった歴史もあって、所有している国宝系および、重要文化財系仏教美術作品も多く、飛鳥時代から江戸時代など幅が広いことも特徴です。
先ほどから、3枚連続で掲示している画像は、その中でも有名な運慶仏師作の『八大童子』像で、これも国宝です。
イメージ 2
そういったこともあり、高野山は歴史に翻弄されていた場所でもあったということは事実なのかもしれません。弘法大師空海上人も「時の権力者」と争うことを嫌った節はあったと思います。
そういう中で、発展できたのは…。
イメージ 3奇跡なのかもしれません。信仰のなせる業かもしれませんね。ということで、「お昼ご飯」を食べる店は、「千手院橋」交差点を左に曲がった場所にありました。
二人で注文したのはこれです。
それを食べてから、「宝物館」に向かいます。それでは、次回「11」に宝物館の話をしていきます。それでは。