高野山愛の旅 11 「宝物館」に行ってみます(前編)

さて、本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「高野山愛の旅」の11回目、3年前の旅では、訪れる機会に恵まれなかった「宝物館」に向かいます。

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昼食を食べた後、私と「しまかぜ」氏は、「金剛峰寺」に至る道を再び歩き出しました。
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「金剛峰寺」の真ん前を通り過ぎ(そういえば、スタンプだけでも押すことはできました)、「宝物館」に向かいます。さて、先ほどの「宝物館」と書きましたが、この施設の正式名称は「金剛峰寺霊宝館」と呼ばれる博物館相当施設です。

ここで、出てきた「博物館相当施設」とは何ぞやと思われる方もいらっしゃいますので、少し時間を借りて、博物館についてお話しします。
そもそも、博物館の歴史は、たどってみていくと「ルネサンス期」と呼ばれた14世紀ヨーロッパまでさかのぼることができますが、あまりにも長すぎるためにここでは省き、近代日本に限定し、150年前までさかのぼってお話しします。
150年前の嘉永6(1853)年の「黒船浦賀来航」と、そのあとに続く安政3(1858)年の「日米修好通商条約」の締結に伴い、国交を開いて2年後の安政5(1860)年に「遣欧米使節団」が派遣され、文久元(1862)年に使節団はロンドンの「第2回ロンドン博覧会」を見学したことから、そのすべてが始まります。
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このとき、通訳として同行していた福沢諭吉(のちに慶應義塾の創始者)は、慶応2(1866)年と慶応4{明治元}(1868)年に、『西洋事情』でその様子を詳しく書き記しております。
これをもとにして、慶応3(1867)年に江戸幕府(この年の11月に大政奉還をこなっています)が、「パリ万博」に出展したことが始まりとされております。
ちなみに、明治期に入って、多くの博物館がお目見えしていきますが、博物館建設が加速したのが、大正期(1912-1926)と昭和43(1968)年以降です。
ちなみに、私たちが向かう「霊宝館」は、大正期に設立された博物館ですが、博物館相当施設という名称は、どこにも出てきません。博物館と博物館相当施設がどういう形で、出てきたのか。それは、戦後の教育制度改革による法整備にヒントがあります。
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時代は、戦後に飛びます。昭和26(1951)年、日本がGHQ(General Head Quarter:連合国軍総司令部)の統治下から脱出した「サンフランシスコ条約」の締結を、当時の内閣総理大臣吉田茂が行った時と同じ年、『博物館法』という法律が制定されます。中身は、博物館の役割や、目的に掲げているものが何かなどを明確に記したものです。
その中で、博物館と博物館相当施設を次のように定義しております。
「博物館」とは「博物館がある都道府県の教育委員会の『博物館登録記簿』に登録した登録博物館のことをさす。」とあります。それに対して「博物館相当施設」は「『博物館法』第29条の条例と、『博物館法』施行規則第19条の指定要件に基づき、国または独立行政法人が設置する施設にあたって文科相が、その施設にあっては、所在する都道府県の教育委員会に、博物館施設として指定したもの」として定義したのが始まりです(引用文献『概説 博物館学』 芙蓉書房出版刊)。
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ゆえに、この「霊宝館」は文科相の指定を受け、和歌山県教育委員会が指定した施設ということになります。
イメージ 6だいぶ長々と話をしましたが、この話は博物館の違いというのでは、大きな違いがあることを意味しております。理由は、文科相のお墨付きを得ているか、またはお墨付きを得ていないのかで、異なるということを表しております。
博物館を訪れてみたときに、「博物館相当施設」と書いてあるホームページがありましたら、今の話を思いおこしてみてください。
早速入ってみます。
ここからは、「霊宝館」のホームページの画像を利用しまして、お伝えします。
まず、私と「しまかぜ」氏が最初に向かう場所は、新収蔵庫と呼ばれる施設です。
前回で紹介したこの仏像。
これも、収蔵されているのは「霊宝館」で、言い換えてみれば「霊宝館」も所属は「金剛峰寺」ということになります。では、カラー画像でこの像を見てみましょう。どうぞ。
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朱色の体、そして睨み付ける目、その神々しさと、異様さに酔いしれる感じがします。これは「制多伽童子」と呼ばれる銅像です。
さらに、
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こ、これはいったい…。正体は、「重文 深沙大将立像」という仏像です(この展示物は今は見ることができませんご了承ください)。
ちなみに特徴は、仏でありながら、体に像などの獣が多数織り交ぜられているという点にあります。まさに、密教の精神を具現化してものかもしれません。

ということで、次回「12」はその後編をお届けします。それでは。