高野山愛の旅 12 「宝物館」に行ってみます(後編)

さて、本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「高野山愛の旅」の12回目、「宝物館」に行ってみますの「後編」です。
さて、今までは、新収蔵庫の前半を見てきましたが、後半戦は彫刻編の残りと絵画編です。
クリックすると新しいウィンドウで開きます
続いては、この画像ですが、これは、諸尊仏龕(しょそんぶつがん)附:銅製厨子です。
これを見ることはできませんでしたが、Wikipediaの解説では、ビャクダン材に精緻な浮き彫りで多くの仏像を表しており、中国的要素が見られる彫刻です。
ある話では、空海が唐から持ち帰った文物を記した『御請来目録』には仏龕の記載があり、これを本仏龕に比定する説もあります。
続いて、登場するのは仏像ですが、「重文 孔雀明王像(快慶作)一躯」です。
これは、後鳥羽法皇の要請で快慶が彫った作品として知られております。
そのまま、彫刻の場面を過ぎて、今度は、仏画編をご覧いただきます。
続いて抄造されていたのが、絹本著色五大力菩薩像です。鎮護国家の対象だったといわれておりましたが、明治の廃仏毀釈の影響を浴び、この一服しか残っていないといわれております。
ちなみに、描かれた時代は平安時代の中ごろとされております。
続いては、阿弥陀聖衆来迎図です。この来迎図は、浄土宗および、浄土真宗が多く所蔵しているものです。
しかし、この高野山「霊宝館」は、そのどちらでもありません…、真言宗です。しかし、その真言宗と同時代に伝来し、のちに浄土宗など、鎌倉六宗派の先駆けとなった天台宗にも、阿弥陀仏がいるのですが、それは、大日如来のわきに置かれた仏でしたが、この理由ともかかわってきます。
実は、別宗派である真言宗、天台宗は開祖となる人物が、同じような時期に中国「唐」に留学僧として出向いています。その人物は、真言宗が弘法大師空海上人、天台宗が伝教大師最澄上人です。
その中国「唐」に根付いていた「密教」と「天台教」を持ち帰ってきたのですが、その時は「浄土教」というのを持ち帰ってきていなかったのです。それからさかのぼること200年前に、浄土教思想自体は日本に伝来していたという話がありますが、「天台浄土教」としての浄土思想は、3代目の天台座主慈覚大師円仁上人によって、本格的に導入され研究されることになります。

少し、話がそれたのですが、絵画の謎を解いたところで、続いては、工芸編。
こちらは、沢千鳥蒔絵小唐櫃(さわちどりまきえこからびつ)という経典を入れる本箱です。平安時代に作られたものですが、この蒔絵の技法は、とぎだす技法で平安時代当時はスタンダードなやり方でした。
蒔絵の技術革新は、鎌倉から室町時代にかけて使われるものが多く、平安時代では研ぎ出し蒔絵と、筆で金の線などを描いていく平蒔絵の2種類しかありませんでした。
ちなみに、武士の鞍の装飾で、こういった技術が発展し、高蒔絵(漆を盛る技法)、錆蒔絵(漆の中に錆などを混ぜて浮き立たせる技法)ほか、螺鈿細工技術(その名の通り螺鈿をはめて漆でとぎだす技法)などが開発されて行きます。
といった形で、仏画などを見てきた後、
イメージ 1
ようやく、外に出てきました。その時刻は午後3時近く。このままでは、「金剛峰寺」に行くことは困難(考えてみれば「霊宝館」自体が、「金剛峰寺」だよ!)だと判断して、お土産を買いに歩くことになりました。

次回の「13・14」回はその合間の話をお伝えいたします。それでは。