近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 03

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第3回、大阪市内からS氏とともに、京都の京阪三条駅まで出町柳駅行特急に乗り込んだところから始めます

さて、午前9時20分大阪淀屋橋駅先発の出町柳駅行特急で京都方面に足を向けたのですが、ちょうど、この特急は、人の出入りが激しく、お盆の時期と重なったために、前方写真を撮ることができませんでした。そこで、昨年から本年にかけて撮影したものを代用して、説明していきます。イメージ 1
ちなみに乗車したのは、3000系3006編成、元「トーマスラッピング」編成です。今年もやると思いますが…。撮影ができませんでした。
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ちなみに、これが、トーマスラッピング時代の3006編成、中書島駅で撮影したものです。これに乗り込んで、京都市三条駅を目指します。
私たちが確保した座席は、第一扉の連結面側(上の画像では、少し奥の方になりますが、女性車両ステッカー部分のすぐ隣)の席でした。私は、Facebookで知り合った方に、電話をかけてみたのですが、つながらず(前日に予定表を送ってしまったために、予定調整がつかないみたいで…、申し訳ございませんでした)、そのまま列車に乗って二人旅となりました。
なぜ、私とS氏は、この京阪を今回の旅に選んだのか、それにはこんな理由があります。実は、京都方面に向かう路線は明治初期にJR西日本の母体となる日本国官営鉄道によって神戸駅から大阪駅が建設されたことに始まります。明治5(1872)年に東京市新橋駅(現在の東京都汐留地区)から横浜市横浜駅(現在の根岸線桜木町駅)までの区間が開通したと同じ時期でした。
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しかし、当時の官営鉄道の大阪側始発駅だった梅田(現在の大阪駅周辺)は郊外の田園地帯、現在からは想像がつかない田園だったのです(ちなみに、梅田というのは『田を埋めた』という意味からきており、「埋田」と書いては縁起が悪いので、『埋』を『梅』に代えて地名としたのが始まりです。ちなみに、大阪城は梅の花の名所でもあることにあやかったのかもしれませんね)。
しかし、淀川の北側を走る官営鉄道に、官営鉄道から外れた地域の住民(現在の守口市、門真市、摂津市、寝屋川市、枚方市など)は「鉄道があったらいいな」と思ったのかもしれません。
そこで、大阪と京都を結ぶ第2の路線を建設しようとしました。ところが、法律の壁に阻まれかけます。それが『鉄道法』という法律でした。当時は、「都市間を走る鉄道は1地域1路線とする」という原則の下で、鉄道運営がなされていて、2本目の路線を敷くのは御法度だったのです。
そこで示された対策が、
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路面電車の敷設を促した『軌道法』による路線の建設でした。『軌道法』を抜け穴として現在に至る鉄道会社は関西大手5社中8割の4社、その中でも、
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最大級の路線規模を誇る近鉄、
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新車を続々投入している阪急。
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近鉄と相互乗り入れを行う阪神。
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阪神と相互乗り入れを行っていて、阪急にも乗り入れている山陽電鉄(準私鉄)。
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こういった関係から、路面電車による鉄道敷設が盛んになり、京阪もその影響を受けたといえるかもしれません。そして、明治43(1910)年に大阪市の天満橋駅から京都市の五条大橋駅(現在の清水五条駅)が開業したのです。
ですが、
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実際乗車してみてわかるように、カーブだらけの会社と揶揄される起源は、『軌道法』にあったといっていいかもしれません。
私とS氏を乗せた列車は、北浜駅、天満橋駅、京橋駅と停車していき、そこから次の停車駅は枚方市駅です。
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ここから一気に、枚方市駅を目指して走るのですが…。外は雨がたたきつける区間がありました。
それは…。
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このぼやけている画像の区間、つまり守口市駅から、萱島駅までの区間でした。通り雨だったのかもしれません。列車は萱島駅を抜けて寝屋川市駅を通過。
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寝屋川市駅の手前にある萱島駅が、複々線区間の終了地点ですが、この場所は萱島明神のすぐ下に神社があり、そこから延びる御神木を守る形で駅が建設されたといういきさつがあります。
そして、大阪府の北東端に位置する枚方市に入り、
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午前9時50分。列車は枚方市駅に到着。ここから、樟葉駅、中書島駅、丹波橋駅という順番に停車していきます。

ということで、次回「04」では山本覚馬が取り組んだ、京都の復興と、なぜ京都が荒廃したのかについて、京阪電車の画像などを交えながら、お話しします。それでは。