近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 04

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第4回です。
私とS氏を乗せた京都市出町柳駅行特急(京阪3000系3006編成)は、枚方市えきで停車。
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さて、枚方市から、次の停車駅の樟葉駅、中書島駅、丹波橋駅、七条駅、祇園四条駅、三条駅に向かって走ります。
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さて、樟葉駅に向かうのですが、ここで一つで、歴史の舞台をご紹介しておきましょう。
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この場所です。奥にあるのが、橋本駅(関西路氏ではありません)ですが、この付近は慶応4(1868)年1月に、明治維新政府軍と旧幕府軍が戦闘となった「橋本の戦い」の舞台となった場所です。実は、その時に先鋒を務めたのが、新選組だったとされております。
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その鳥羽伏見の戦いに参加できなかったのが、山本覚馬だったのですが、その本人は京都の薩摩藩邸に囚われの身となっていたのです。そうだといっても、どうしてなのか、新政府軍曰く、「朝敵となったから」ということだけだったようで、会津藩を含めた旧幕府軍は、日本を代表する国軍ではないというレッテルを張られていた状況にありました。
兵器でも新政府軍が、最新鋭の英国製戦闘銃、大砲を装備しているので有利であることに変わりはなく、どうあがいても、旧幕府軍に勝ち目はなかったのです。
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結果は、皆様もご存知の通りで、旧幕府軍の函館城降伏となる明治2(1869)年によって、幕がおろされます。しかし、一連の戦争となる『戊辰戦争』で、被害をこうむったのは、山本覚馬の出身藩である会津藩でした。
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そうした中で、山本覚馬は京都の復興に心血を注ぐことになるのです。薩摩藩邸にとらわれてから数か月、自らの目は病み、足の筋力が衰え、杖を突かないと歩けない状態になっていたのです。
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そうした結果からか、青森の斗南に写った旧会津藩士たちは、東京などに出てくることになります。そして、山本覚馬を敬愛する人として、安否を気遣っていた山本八重こと、新島八重が京都の覚馬の暮らしていた場所で、生活を共にするようになると、アシスタントとして彼の復興事業の手助けをしていたそうです。
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さて、列車は、京都市伏見区の中書島駅に到着。ここから京都市内へと向かって進みます。

ということで、次回「05」では、京都市内から山本覚馬が取り組んだことを話していきます。それでは。