近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 05

本日の話題の3本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第5回、列車は京都市内に入ります。
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京都市内が焼け野原となってしまった明治元(1868)年、実質的な首都が東京へ移転する明治2(1869)年まで、京都は幕末の動乱の余波をかぶっておりました。
この中で、新政府は旧幕府を壊滅させるという考えてに至ったまま進んでいたのです。そのことを聞いた山本覚馬は、急遽自分が今まで体験してきたことから、まとめあげた政治政策文章を、総司令軍司令官だった西郷隆盛に上奏したのです。
これを見た西郷隆盛は、目を見開かされます。
「覚馬ドン、おはんが思ちょったことは、強か日本ば創ることでごわしたか(覚馬さん、君が思っていたことは、強い日本を作ることであったのか)」と、西郷隆盛の頭の中では、そう思っていたかもしれません。
さらに、勝安房守海舟が『戊辰戦争』の「江戸無血開城」でも、このままでは、海外からの植民地支配を受けかねないといえる状況でした。さらに、維新をお膳立てした坂本龍馬の『船中八策』よりも具体的な政策目標を掲げた山本覚馬ですが、この間に、失明したあと、京都で暮らし始めることになります。
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その京都で暮らし始めたのですが、明治3(1870)年、天皇の遷都(実際は行幸)によって、活気がなくなった京都は、ここからどのようにして復興させるのか、難しいかじ取りを迫られることになりました。実際に、天皇の行幸によって、七万戸あった住宅戸数のうち一万戸が減少するという、事態を目の当たりにして、京都府知事の槇村正直は、山本覚馬を招集し、京都復興のトップに任命します。
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その遺産が、今の京都を成り立たせる原動力となったのは、言い過ぎではありません。しかも、京都復興計画から、のちに導入される水力発電所、そして路面軌道の敷設と発展、教育面ではキリスト教系大学校の同志社などを生み出していくことになり、そしてそれが着実に芽吹きます。
山本覚馬に影響を受けた人は数多く、その中には新島八重も含まれております。確かに、その意味では、彼女の地震性の目標だったという言い方もできるかもしれません。
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その後、先進的な考え方を持ち京都市内で、「女工場」を創設し、女性教育に力を入れたうえで、「織殿」で産業を育成、そして、中学などの次世代きょいうくにも力を入れて、京都の復興を後押ししていくようになります。

そこからの成果というのが、今回旅することになる琵琶湖疎水記念館という建物です。と言うことで、私たちはその場所に向かっているのですが、その話は次回「06」でお話しします。それでは。