近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 06

さて、本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第6回です。

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さて、私たちは、京都市内の地下に入ってきました。そこからさらに、話を進めましょう。私とS氏を乗せた3006編成出町柳駅行特急は、地下区間に入り、そのまま足を進めます。
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列車は京阪電鉄本線の終点三条駅に到着、そこから、京阪京津線と関係のある京都市営地下鉄東西線で蹴上駅へ。
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約10分で、蹴上駅に到着後、すぐに地上に出て、琵琶湖疎水記念館を目指します。
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この琵琶湖疎水は、琵琶湖の水を直線距離で引いて、物流の大動脈にしようと考えてのことでした。実質的な技術提案と工事は、田辺朔朗氏が担当したのですが、大津と京都を直線距離で結ぶという点は、山本覚馬のアイディアが生かされておりました。
それをもとに、明治18(1885)年に着工されるのです。そして、5年の年月をかけて、明治23(1890)年に完成します。その2年後に山本覚馬は、復興を見届けたかのように息を引き取るのです。
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しかし、当時としては初といえるトンネルによる工事方法で、伏見と大津を短絡的に結ぶ働きをし、その副産物として発電所を設けるなど今までの発想とは異なる方法を用いて、トンネルを掘り進め、鴨川への安全な輸送路を確保することに成功したわけですから、その点がすごかったといえるかもしれませんし、その才能を見越し育てた覚馬もすごかったといえます。
その電気に関しては、のちに京都市内の伝統を確保するために、アメリカにあるアスペン市(コロラド州)に視察をしていた田辺朔朗氏と高木文平氏が、持ち込んだ技術によって成し遂げられております。
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実は、二人の最初の目的は、この画像のようにインクラインを、安全な角度で設置するにはどういった工事を行えばよいか、などを調査するのが最初の目的であったようで、電気事業関連は第二項目に分類されていたようです。
実は、この時点で少しこぼれ話を、明治21(1888)年10月20日に渡米した二人は、ボストンでの水道事業と、リン市の市電について調査していて、インクラインの参考にモリス運河を視察しております。インクラインの形式を再検討するために11月25日、つまり渡米からひと月あまりのち、電報を京都に打ち、さらに12月9日には『インクラインの工事は帰国するまで待ってほしい」内容の書簡を送ります。
しかし、提出した案では危険が多すぎるとのことで却下され、画像のような形に仕上がったというのです。
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最初は、そういうすったもんだがあったものの、現在の形に落ち着き、大量の電力お必要とする方式を採用したことによって、水力発電所を敷設したというのです。

そして、次回の「07」では、その電力事業にどうやって挑んだのかそれについて、お書きいたします。それでは。