近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 10

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の早くも第10回です。

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さて、山本覚馬達の功績ではなく、山本覚馬以外の人物に焦点を当てます。実は、山本覚馬以外にも、会津出身者の話が多く、山川大蔵といった人物が多いのですが、その中でも、柴五郎という人物に焦点を当ててみます。イメージ 2
柴五郎のことについてですが、実は、「会津戦争」とかかわりがあるお方です。異名に「コロネル・シバ」と呼ばれたこの人物で、「北清事変」の鎮圧を指揮した人物でした。それが明治33(1900)年のことです。
それから、さかのぼること33年前、明治元(1868)年3月、会津は近代兵器を使った戦争で、新島八重がスペンサー銃を手に、戦っていた中で、柴五郎は面川村と呼ばれる村に、現在の会津若松市門田町大字面川に行かせたとされております。
その後、家族が自決を遂げます。
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その家族の残した分も背負った彼は、軍人となり、あの明治33(1900)年の「北清事変」の現地武官として、活躍したのです。
しかも、彼らは「武士道」という心を世界に見せつけた人でもありました。彼を押して「武人」といわしめた方はいないといわれているほど、彼の温厚な人柄には、東北人としての共通した部分があったと思われます。
山本覚馬にも、新島八重にも同じ言葉が似合うかもしれません。それは、ただやさしさだけでなく、その中にある強さを見たのだと思います。
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そこに、新島襄が惹かれたのも考えられることです。そして、彼の育てた、いいえ、二人の育てた「同志社」英学校は、「同志社大学」として育っております。

会津出身者の柴五郎が、軍人としての能力をはぐぐませたのが、山本覚馬の会津藩時代の同僚である山川大蔵だったこともあり、陸軍畑を歩いて行ったことなど、会津藩はまさにどん底から立ち上がった東北の誇りというべきではないでしょうか。

今、東日本大震災から早くも3年が過ぎたのですが、そこから本当に立ち直ったのでしょうか。そう思えてなりません。

ということで、次回「11」は、その同志社大学を経て「相国寺」を経由し、出町柳駅に向かいます。それでは。