近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 12

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第12回です。
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相国寺を後にして、出町柳駅に急ぐのですが、なんといっても時期は8月半ば、まだまだ暑さが残る季節だからこそ、汗をかくのが一番ですよね(そんな発想は古いかも)。
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最後に、山本覚馬と新島襄をみとった後、新島八重がどういう風に生きていったのかについて、明治33年の「北清事変」以後の柴五郎がどうなったのかについてお話しします。

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新島八重は、二人をなくした後、日清・日露戦争の従軍看護師として兵士たちの介護をする立場に立ちます。これは、戊辰戦争時でも彼女が経験していたことで、その経験を生かそうとしたのだと思います。
そして、晩年には茶道などの日本文化を学ぶ事にも力を注ぎます。そして、昭和7年にその生涯を閉じます。
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しかし、柴五郎の方は、穏やかな生涯ではなかったようです。明治33年以後、日露戦争にも従軍、明治39(1906)年1月まで旧満州こと中国東北部を渡り歩き、その年の2月23日に日本に帰国し、その足で赴任地ロンドンに再び向かいます。これが同じ年の8月です。
そこで、改正日英同盟(実は日英同盟は改正されています)協議に参画して明治41(1908)年に帰国するという外交の一翼を担う武官として活躍します。
さらに、もともと中国通であったことから、上海に赴任して「辛亥革命」の動向を調査、あわただしい中で帰国したはいいものの、坐骨神経痛の病状を患って、療養中に明治天皇崩御(明治45{1912}年)の一報を受けます。
そして、大正年間に入って再び、中国での革命がおこると(第2次革命)、その現地調査に急行して帰国したのち、大正3(1914)年に5度目のイギリス訪問を果たします。
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陸軍の最高官位を拝命したのは大正8(1919)年、つまり、パリのベルサイユ条約が締結された年で、この5年後となる大正13(1924)年に隠居生活に入りますが、この日本陸軍が暴走した昭和へ向かい、昭和20(1945)年8月15日の無条件降伏を受け入れるのを聞いてから、ちょうどひと月後、割腹自殺を遂げようとしたのですが、その傷がもとで同じ年の12月13日に、息を引き取ります。
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このように、会津藩から出た人物は、このほかに海軍に入った元白虎隊の生き残りである出羽重遠(のち海軍大将)がいますが、あまり知られていません。
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また、同志社大学出身の覚馬門下生たち(そういうと語弊がありますが)は、日本各地で活躍したことも知られており、その中に、
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京都電気鉄道などを支えていきます。

さて、そのあと、私とS氏の二人は、出町柳駅から、
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8000系8001編成大阪淀屋橋駅行特急に乗り込んで、樟葉駅を目指します。次回は「京阪3000系広場」を見に行くことにします。それでは。