近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅 14

本日の話題の3本目は、「鉄タビ」から「近代化遺産と山本覚馬達の功績を巡る旅」の第14回。

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私とS氏は、昨年引退した京阪特急車両旧3000系の3505編成が展示されている場所に向かいます。
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京阪電鉄は、明治43(1910)年に天満橋駅と五条駅間が開通した後、大正2(1913)年、宇治線となる路線の着工に並行して、京都市に五条駅から三条駅までの区間の建設工事を開始、宇治線はわずか半年で営業運転にこぎつけ、それから2年をかけて、営業運転ができることになりました。
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実は、この前年に天満橋駅から五条駅まで急行列車を運転がされており、三条間に延長され、この翌年には、天満橋駅と三条駅間を1時間で、四条駅のみにしか止まらない最急行を設定、同時に急行は、天満橋駅を出ると枚方市、八幡市駅、中書島駅、伏見桃山駅、稲荷(現在の伏見稲荷)駅、七条駅、五条駅、四条駅に停車する急行列車を新設していました。
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(Kh8001F)ちょっと待ってください、今の特急より、大阪側の停車駅が少なすぎですよ!
(N)それを言われても難しいのですが、明治後期であっても、大阪市内の郊外はまだ都市化していなかったから、停車駅がなかった可能性があるといわれておりますよ。
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(Kt50002F)確か、大先輩だった2200系さんが大阪上本町駅を出ると奈良県の大和八木駅まで止まらなかったのですから。
(N)そうですね。確かに、その通りです。それでは解説に戻ります。

その後、大正年間で、本線の原型を作った後、京阪電鉄はいろいろと路線開発、新路線として、阪神急行十三駅と淡路駅、天神橋筋六丁目から烏丸駅、淡路駅から千里山駅までの区間が「新京阪」として開業します。
実は合弁会社として、奈良電鉄も京阪と大阪電気軌道、現在の近鉄と提携したのです。
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しかし、この観光地図にはそれが入っていませんね。どういうことなのでしょうか。その手掛かりは2度の変化によって起きたことでした。それは、昭和18(1943)年と、昭和24(1949)年に入っての変化によるものです。
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では、その転機について、お話しします。昭和18年の10月の陸上交通事業調整法の省令を受けて、京阪電鉄は阪神急行電鉄の合併により京阪神急行電鉄として再スタートを切ります。ところが、戦局は悪化の一途をたどり、昭和20(1945)年8月15日に終戦。なんと1年10か月で、戦後を迎えるのです。
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戦後初期に、乗り入れを開始したのが現在の近鉄京都線の前身奈良電鉄ですが、京都を結ぶ路線のうち、2路線は京阪神急行電鉄にとってはお荷物に近い状態であったため、分離を決断します。
昭和24(1949)年12月、皮肉にも6年しか続かなかった京阪神急行電鉄時代の京阪電鉄路線は、2代目京阪電鉄に譲渡されます。
ここから、サービスでお金を稼ぐというスタイル(初代)の息吹が復活し、テレビカーが昭和29(1954)年に開始されたのを皮切りとして、平成25(2013)年の8000系30番の引退まで続きます。
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現在、京阪電鉄は京都方面と大阪方面の通勤輸送、観光輸送を中心に走る路線となっております。
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しかし、HOゲージの車両を見ていた子供たちはいつの時代も変わらず目を輝かせているですし、
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地域住民に愛される鉄道となっているのかもしれません。

ということで、次回「15」は、その中にある車両たちにスポットを当てていきます。それでは。