近鉄団体車両撮影ツアー 10

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近鉄団体車両撮影ツアー」の第10回です。大台の10に乗ってしまいました。では、さっさと始めます。
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さて、私と500T氏のふたりで、撮影会場に向かいます。
そこには、
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今回の主役が勢ぞろいしておりました。実は、今回の解説は、このうち「あおぞら」として活躍中の15200系の元、12200系を取り上げます。

実質上、昭和42(1967)年の12000系の登場から、甲特急運用に12000系が当たることになったのですが、それから3年となる昭和45(1970)年に大阪で万博開催が決まり、それに向けた輸送力の増強と、伊勢観光のさらなる拡大に向けたプロジェクトが進行しておりました。
その主な要点は3点に分かれます。最初の万博輸送となる路線は、大阪難波駅と大阪上本町駅の新規路線の敷設工事、2か所目は、宇治山田駅からの新規開拓路線、3か所目は、志摩国定公園の玄関口を結ぶ路線の改軌工事という点です。この3路線は大阪万博の開催に当たる昭和45年3月に開業します。その中で、
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輸送力を増強しようと近鉄首脳陣は考えを改め、大量輸送とレイアウトを大幅に変更した12200系を当てることになるのです。
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(Kt15206F)確かに、私が製造されたのは、そういった世の中の流れが背景にあった。それに、当初は2両での生産を続けるだけで十分だと判断していたんだよ。そこで6編成12両が前年に落成し、トップバッターを務めたのだよ。ところが…。

しかし、実際にふたを開けてみると、予測を大きく上回る入場者数を誇る万博の入場者数に頭を痛める始末。それを予測してか、追加製造を行い、何とか輸送力を確保します。
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(Kt15206F)実は、同時に設計されたのが、18400君だよ。
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(Kt18409F【除籍】)確かに、私たちも12200系さんとともに京都線などを駆け巡っておりましたから。

その後、18400系は10編成20両、12200系は総合計で56編成166両(2両不足しています。その理由はこの後説明します)、12000系は3編成6両(4両不足しています。その理由はこの後説明します)。総合計で192両という大所帯となったのです(最終生産となった昭和51{1976}年時点)。

しかし、この数字には悲劇も隠されておりました。12200系が登場した昭和44(1969)年。伊勢中川駅停車直前の名古屋駅先発特急が、脱線する事故によって、12007編成が廃車される悲劇が起こります。
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(Kt15206F)実は、それだけではなかったのだよ。12202編成さんが犠牲になったあの事故は避けて通れないからね。

万博が7か月にわたって続き10月に閉会後、昭和48(1973)年の式年遷宮に向けて準備を進めていた矢先の昭和46(1971)年10月25日午後3時、現在の三重県津市東青山駅を走行していた名古屋駅行特急(乙特114{午後2時半ごろ大阪上本町駅発})がATSの誤作動により停止します。
誤作動で停止したと聞いた東青山駅の助役が、駆けつけてきて名古屋駅行特急の運転士と相談し、ハンドスコッチと呼ばれる車止めをはずされてしまいます。実は助役がその行為をしたとされており、運転士は知らずにブレーキを緩めてしまいます。
このとき、セーフ機能であるATSを切ってしまった状態だったため、ブレーキを掛けられず暴走してしまいます。
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(Kt15206F)そこに、たまたま運用についていた12226編成君を先頭とする7両編成の大阪難波駅行(12226君と10100系先輩)と京都駅行(18200系先輩運用)特急(乙特急)と出合い頭で衝突し、12001先輩は大破してしまい。近鉄大阪線史上最悪の大事故となったのだよ。しかも、今いる場所から目と鼻の先でね。

死者は25名、実際の運転士車掌はともかく、助役までもが巻き込まれ、ハンドスコッチを外した動機の解明ができないまま、227名の重軽傷者を出した事故は起こってしまいました。
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(Kt15206F)結果的に、当事者だった12202編成君と12001編成先輩は、廃車されたのだけど12226君は何か月もかけて前線に復帰したのだよ。

そんな悲劇があったのは、事実ですよね(合掌)。
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そういった中で、この事態をどう防ぐのか、近鉄首脳陣は考えを変えざるを得なくなります。

ということで、次回は「11」として、大阪線の複線化についての解説と12200系のその後をお話しします。それでは。

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