近鉄団体車両撮影ツアー 15

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近鉄団体車両撮影ツアー」の第15回、
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さて、撮影を待っているところですが、列車は20分に1本という状態の中で、撮影を続けます。ちなみに、本日このブログに関連して鉄道ファン11月号で、8月23日のことが載っておりました。少しだけでしたが、隅に書いております。
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500T氏が乗ってきた急行編成が大阪上本町駅行となって帰ってきて、そのまま過ぎ去りました。

さて、解説も12410系と同世代の車両に入ってきました。この後に登場します。
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と、その前に、22000系の鳥羽駅行特急(乙特急)が通過。そして、登場するのがこの車両です。
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やってきました。ご紹介するのは2編成しかない12600系です。実は、12600系は第1編成が、PT48型パンタグラフ2個を制御電動車両と電動車両それぞれに搭載した1次編成で、第2編成はパンタグラフを制御電動車両は大阪側が、電動車両は名古屋側が削られた形です。カテゴリーおよび肩書は、標準軌規格汎用特急専用車両アコモデーション改修2式橿原線および京都線輸送力強化型と言われております。
その理由は何だったのか、その話をする前に、近鉄京都線特急の話に触れておきましょう。
昭和40年以降、近鉄は京都線の戦力増強を目的として、680系の後継車両を投入してきたのですが、当時の京都線と橿原線の標準電圧は600V、その形に対応するために、
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標準軌規格汎用特急専用車両京都橿原線使用規格18000系で、全て電動車両で組み上げられた車両で、試験を行っていたのです。その600Vと1500Vを両方扱う標準軌規格汎用特急専用車両18200系が登場し、昭和44(1969)年に1500Vへの昇圧を行ってから、18000系は京奈、京橿原特急限定で、18200系は京都駅始発の全列車を担当していくということになったのです。
実は、この18000系と18200系は、年数の差は1年ですが、床下回りはほかの車両からの流用品だったことがあり、老朽化するスピードが速かったのです。そのために、
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18200系は団体車両として余生を送り平成10年に旅客車両の役目を終えるのですが、老朽化がひどくなってしまった18000系は、昭和57(1982)年に引退しなければならないという瀬戸際に立たされます。
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その後継機となるのが、
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この12600系だったということになります。
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(Kt2611F)この12600系の大きな特徴は、最初から4両固定編成だったことと、サニタリの位置が再び変わったという点になるのですが、今までのナレーターさんのお話しでもわかったように、12400系さんまでは、付随車両と制御車両にサニタリスペースが設置されており、12410系さんでは、電動車両と制御電動車両に代わったのですが、12600系さんはその真ん中のいいとこどりをする格好になったわけです。

そうですね。確かに、2611編成さんのおっしゃる通りで、12410系で変更されたトイレの位置が、再び変更されて定員バランスが取れたということになったわけです。
そこから、30000系の最終編成こと30214、30215編成が製造されるきっかけにもなったわけです。
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(Kt12602F)ただ、その代り、僕たちの代償は大きかった。ビスタカーばかりが注目されて大変だったが、実は試行錯誤の犠牲になったということも否めない部分もあったわけだよ。

つまり、12400系を含めたサニーカー系列は、3形式合わせても10編成しかなく、その後の特急車両とのつなぎ役ともいえる位置を占めておりました。しかも、当時のシンボルカー30000系ビスタカーが、注目される中で、国鉄の民営化が昭和62(1987)年に決まるという衝撃的なニュースがもたらされると、12410系で先鞭をつけた名阪甲特急の復権の野望を抱いていた近鉄にとっては、さらなる車両の導入が必要となってきました。

つまり、この昭和50年代後半から昭和60年代にかけては、過渡期といわれる時代でもあったわけです。
まあ、そんなこともありつつ、時代は平成に向けてかじを切ろうとしておりました。昭和62(1987)年4月からJR民営企業へ移行した国鉄と、近鉄は翌昭和63年に勝負に出るのですが…。

ということで、次回「16」は「アーバンライナー」のお話し前篇です。それでは。

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