近鉄鉄道祭り’14 ヒストリー ゴー アンド 五位堂号 12

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近鉄鉄道祭り’14 ヒストリー ゴー アンド 五位堂号」の第12回です。
イメージ 1
さて、私と500T氏は、子供たちと合流したのですが、というところから始まります。しかし、クイズの問題を2問とも見つけられないということから、クイズの回答をあきらめるということになってしまったというのは、前回お話ししたのですが、このクイズのタイトルが「謎の特急券」という話だったのですが。
イメージ 2
なぜ、こういったクイズを行ったのか、その話をしていくと、実はこんな話に突き当たります。
近鉄特急には、昔から多くの車両が走り、多くの系統が使われてきました。
イメージ 3
今でも、橿原神宮前駅と奈良駅から京都駅に向かう特急が走っているのも、その表れですが、併結列車が近鉄特急で生まれた理由はどこにあるのか、それを探っていくことにします。
実は、近鉄線の併結列車は、どの時点で誕生したのか、RailMmagazin社が1997年に別冊にて全3巻にわたって解説した『私鉄特急のすべて』を紐解いてみますと、その始まりとなるのは昭和41年に誕生した18200系の存在です。
当時、2両固定編成で誕生し、5編成が製造された車両、しかし、京都線内でも本数自体が少ないというネック、それに大阪線との関係もあれば、当時の高度経済成長時代の真っただ中では、輸送力強化に一役買えないかという考えもあって、併結運転での効率化を目指すという試みが始まったわけです。
イメージ 4
昭和41年のころに、近鉄に所属していた特急車両は5種類、10000系が1編成7両を手始めに、10100系が18編成54両、10400系が2編成8両、11400系が10編成30両、18200系が5編成10両、合計109両が在籍していたわけです。
ところで、この後に、昭和42年誕生の12000系が5編成10両(末期には3編成6両{2両とも事故廃車})、昭和44年誕生の12200系が昭和45年時点で10編成20両(最盛期は166両{内訳は2両編成が31編成62両、4両編成が24編成96両、6両編成が2編成12両で事故廃車が1編成2両のみ})、同時期に登場した18400系が5編成10両という状態になり、余裕が出てきました。ところが、京都駅始発の列車はまだ2両編成単独で走る伊勢志摩方面運用と、京都線内しか走らない18000系2編成4両で固めているだけだったので、併結運用はどうしても必要だったとされておりました。
イメージ 5
その流れが大きく変わる出来事が2本あります。それは、昭和48年の大型車両の入線による効率化と、昭和50年の大阪線複線化です。これによって、独自の系統を立てやすくなったというメリットが生まれました。しかし、近鉄特急は何も主要観光地への輸送だけではなく、それ以外の観光地を経由した路線開拓も進めていたというわけです。
イメージ 6
前に紹介した湯の山温泉駅行特急というのは、この関係上で生まれたものです。しかし、平成14(2002)年に運転が中止されてしまうというわけです。
イメージ 7
そんな中で、阪伊特急と京伊特急の併結運転が復活したのですが、その理由は、いわゆるコスト面での効率化という話だったそうです。
イメージ 8
その後、近鉄特急の京伊特急の乗客減少を考慮して、京橿特急への振り替えと京奈特急との併結によって効率化が図られたということになっていくというわけです。
イメージ 9
ということで、次回「近鉄鉄道祭り’14 ヒストリー ゴー アンド 五位堂号 13」は、時間を少し前に戻して、近鉄の安全対策についてお話しします。それでは。