近鉄大阪線本年最後の撮影旅『かぎろひ&あおぞら2』を撮影する 04

さて、本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「近鉄大阪線本年最後の撮影旅『かぎろひ&あおぞら2』を撮影する」の第4回です。
イメージ 1
大和八木駅を4分停車で、出発した名張駅行急行に、揺られている私は、これから初瀬地方を過ぎることになります。
イメージ 3
まず、ここは藤原京跡を東に、進んでいるのですが、そもそも、藤原京が平城京と比較して、広かったのではないかという話があります。
角川新人物文庫刊の『近鉄沿線謎解き散歩』で、35年前の昭和54(1979)年から橿原考古学研究所(最寄り駅は近鉄橿原線畝傍御陵前駅)などの調査により、今まで藤原京と定義されてきた部分の外側(当時は、平城京より狭い面積と考えられていたのですが)で、条坊区画を形成する道の遺構が、次々と見つかり、単に「狭い」だけでは片づけられないという問題が出てきたことに、端を発しております。
実際に、藤原京が首都機能を備えた都だった期間はわずか16年、平城京に移す和銅3(710)年までという短い期間です。
では、16年で遷都した最大の理由は何かと言うと、その一つに、排水機能が中心部に集中したということからという見方もあります。
イメージ 2
しかし、政治的な側面から見てみると、これだけの理由で遷都すると考えるのは妥当ではありません。そこで、和銅3(710)年からさかのぼること6年となる慶雲元(704)年に帰国した遣唐使の報告が背景にあると考えられております。
その内容は、最先端を行く「唐」の技術力とデザイン力を持っているという報告に、衝撃が走ったのです。
それまで、中央に都城を配した藤原京は周りに住居を配置するという、デザインとなっていたのですが、それは中国の三国時代(西暦230年から359年の五胡十六国時代に入るまで)に、海を渡って日本に伝わったとされております。おそらく直接、中国(当時、邪馬台国(日本代表)と交流を持っていたのは、「魏」)から伝わったのではなく、「百済」(現在の大韓民国東部)から伝わったと考えられます。
イメージ 8
実際に、近鉄の駅にも「耳成」というゆかりの地がありますね。まあ、その中を走る近鉄の車両には丹、つまり赤色が似あいますね。
イメージ 4
(Kt1641F)いえいえナレーターさん、赤色ではなくてマルーンですよ、マルーン。
イメージ 5
(Hk1000F)それを云えば、私たちのところもマルーンですよ! 近鉄さんはレッドマルーンですから、私のところが正統派です。
(N)ちょっと、勝手に進行しないでくださいよ。
イメージ 4
イメージ 5
(Kt1641F&Hk1000F)すいません。
イメージ 6
さて、桜井駅を出発した列車は、東側の山まで向かいます。初瀬街道を抜けるために、
イメージ 7
最初は大和朝倉駅を、通過したのですが、古典でもこの「大和朝倉」が出てきており、隣の長谷寺駅のある初瀬地域は、古のころから文学にも出てくる重要な地でもあります。
イメージ 9
初瀬地域と「長谷」という同じ読み方なのに二つの漢字が残った理由は、もともとこの地域は「泊瀬(これで読みははつせ)」だったのが、なまって「はせ」となり、「初瀬山」に建立された寺院の「長谷寺」から、この漢字を当てた寺にあやかってつけたというのが始まりといわれております。
ちなみに、この初瀬地域を流れている「初瀬川」の漢字を当た豪族が、長い谷に住んでいたことから「長谷川」と名乗り、それがお寺の名前となったということも考えられます。
この名張駅行急行は、長谷寺駅に臨停となり、すぐに出発して榛原駅に。
イメージ 10
そこを出てすぐに、室生寺の玄関口、室生口大野駅へ。
イメージ 12
そのあとは、奈良県の東端にあたる三本松駅と停車して、いよいよ三重県に入ります。
イメージ 11
さて、三重県は…というところで、次回「05」に向かいます。「05」では、三重県内に入った後、私はどうしたのかについてです。
それでは。