新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 02-3 「再軍備化と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ  平和と戦争の間で揺れた日本」の第4回ですが、タイトルの形は「2-3」となっております。では始めます。

お隣で国家の生命を掛けた「朝鮮戦争」が、昭和25(1950)年6月に起きて以降、再軍備化が進む中で、日本の進むべき方向は一体どうなっていくのかと、人々が見ていた中で、占領政策に関しての対米感情の悪化もある中で、日本は独立へと舵を切ろうとしていたようなのです。
アメリカ側でも、同じようなことを考えていったようです。その骨子は、それからさかのぼること3年前の昭和22(1947)年に一旦は出来上がっていたようです。
ところが、冷戦がヨーロッパにおいて対立を生む結果となり、独立案は白紙に戻されます。
それから、2年後となる昭和24(1949)年、日本が取る道は2つ残されておりました。一つは、講和条約骨子案ができたのと同じ年である昭和22年に、フランスのパリで行われた「パリ講和条約(第2次大戦)」でのイタリアによる全面講和、懲罰的な条約が施行され、軍備と対外活動に制限が加えられたという例が存在しておりました。
もう一つの選択肢は、一方の連合国との講和、いわゆる単独講和という形です。
これは、単独で講和することに主眼を置いているということで、全面的な講和ではないことから、両陣営(民主主義陣営と共産主義陣営)が加盟している国際連合に入ることができないという不利な状況を作ることも意味しています。
後者を選択したのが日本ですが、それから7年後の昭和31年に、国際連合への加盟が実現するのです。

しかし、その状況が憲法の状況に影響を与えていくことになります。
この昭和24年は、10月に、中華人民共和国が成立した都市でもありました。この時期に、日本が西欧諸国と単独で講和に臨むというのは、得策だと吉田内閣は、判断していたのです。
しかし、対保守勢力だった日本社会党を含めた「全面講和派」は「再軍備には反対」を叫んでいたのです。これは、大きな流れになると危惧していた中で、昭和25年6月25日に、「朝鮮戦争」が勃発して結果的には、この声がかき消されるという状況となっていきました。

ただ、日本の再軍備化については、以前から周辺国で危惧する動きがありました。危機感を抱いていていた周辺国は、3国ありました。まず、オセアニアの大国で現在は、日本の貿易相手国の一つであるオーストラリア、続いてお隣のニュージーランド、さらに「People Power」で独裁政権を崩壊させたことで知られているフィリピンでは、危機意識が最も高く、特に、オーストラリアとニュージーランドは、「日本の軍備増強に危惧を抱いており、『軍備制限』を明記するべきだ!」と主張しておりました。
翻って、アメリカはどう考えていたのかといいますと、「そもそも、『軍備制限』を行ってしまえば、共産主義が拡大する現在(昭和25年代)、最低限以下の兵力で立ち向かわねばらなず。今後の平和維持に貢献できるのか疑問がある。よって本格的な再軍備は必要であり、また、アメリカの陸海軍を含めた部隊は、日本にとどまる事で、恐怖は薄れる。」といわれております。
そして、それが「日本国憲法」の第9条「戦争放棄」の条項事態に触れてくるのです。

ということで、その話は、次回の「2-4」でお話しします。