新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 03-1 「安保と憲法で揺れた時代」

さて、本日の話題の2本目は、「歴史もの」から新シリーズの通算第6回、タイトルは便宜上、第3回の1という形をとっております。
 
本日の午前0時ごろ、性格には、昨夜の午後11時ごろ、「イスラム国」に拘束された湯川遥菜さんが、戦闘員によって殺害されたという情報が入ってきて、上へ下への大騒ぎとなったというニュースが流れております。
 
話の枕(注意:落語では、関係ある事柄を述べる時に使う前置きの意味)としては、少し変なことかもしれませんが、日本が内戦状態を何とか避けることができ、その6年後、アメリカ合衆国は日本に西側諸国に参加させるという状況を、作っていくために設けられたのが、「サンフランシスコ講和会議」というものでした。
そして、その中でどういうことが起こったのか、それを見ていきます。
昭和261951)年に「サンフランシスコ講和会議」とともに「講和条約」を、結ぶことができたわけですが、「日本」として独立を果たしたのは、1年後の昭和271952)年になります。
この水面下では、アメリカ合衆国の西側陣営に加わるため、一つの選択に至ります。これが現在に続く、「在日問題」の始まりとなっていきます。
日本は在日コリアンを含めて、移民の扱いに寛大でした。それは戦後すぐの昭和20年代半ばまで続きます。
しかし、「サンフランシスコ講和会議」が彼らの立場を大きく変えることになってしまいます。『在日』が『外国人』という扱いに代わってしまったのです。

それから、おおよそ30年後の昭和55年代に入って、台湾在住の元日本兵が、日本国政府を訴えた裁判では、
「私は、昔の日本の『大日本帝国』の下で兵士として、働きました。しかも、体の一部を失いました! ところが、日本政府は私たちのような人たちのうち、日本人には、手厚い年金制度を施しておりますが、私たちにはそういった保証がありません! 私たちのような人が生まれないために、賢明なご判断を願います。」

こうなっていく理由は、台湾が日本に統治されていた50年間に、日本国民として登録されていたことから、このようなことになったといわれております。

それは、台湾の人たちだけでは済まなかったわけで、至極当然のように、在日コリアンにもこのようなことは適応されていったといわれております。加えて、賠償責任は放棄するというのも条約には盛り込まれたといわれております。

しかし、日本が独立国として歩み始めた時期から、叫ばれ始めていったのが、「憲法改正」の流れです。
その前に、この条約で切り離されてしまった沖縄県についてです。実は、条約で北緯29度線以南の沖縄県は、アメリカ合衆国の直接統治下に置かれることになります。それから20年後の昭和471972)年まで、沖縄県はパスポートがないと渡れないという、いえば「近くて遠い国」ということになります。
ところが、その国家が、変わったために、日本の統治下に及ばない場所となってしまった沖縄県の苦悩が、ここから始まっているというわけです。
実は、その条約にもう一つ関わってくるのが、「旧日米安全保障条約(1951年締結正式名称『日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約』)」です。
この条約も、日本と大きく関わっていた条約であるという事について、前回お話ししました。これ以降、日本はアメリカ合衆国の『在日米軍』の下で、守られるという状態となっていきます。これが、現在に続く「日米安保」の体制の第一歩であるとともに、沖縄県は基地問題も同時に抱えていきます。今も、話題となっている「普天間飛行場移転問題」もこのひとつです。
おそらく、日本独立を早めることで、日本の経済発展を重視するというアメリカ合衆国の考え方は、先ほどもちらっと述べたのですが、賠償請求問題の放棄を意味しておりました。
実は、連合国側の賠償請求権を放棄した背景には、第1次大戦でドイツに多額の賠償金を請求した「パリ講和会議」があり、その点で経済を混乱させ破たんさせた一因といわれていたからです。
ところが、アジア諸国、特に直接侵略を受けた中国ないしミャンマーなどは、反発して、ミャンマー(当時の名称はビルマ)は講和会議自体に欠席を表明するなどの対応も見られておりました。

結果的には、アジア諸国と、東側陣営から理解されなかったうえに、アメリカ色の強かった「サンフランシスコ講和会議」。これから、日本が独立して、早くも「改憲論」がささやかれる中で、「改憲論」に関しての動きがどういうことになっていったのか、それを次回「3-2」でお話しします。

それでは。