新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 03-2 「安保と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から昨日に原稿が消失し掲載できなかった通算第7回を書き始めます。

昭和27(1952)年に、アメリカ合衆国などの西側諸国との単独講和に臨んだ日本、そして、それと同時に、アメリカ合衆国との間で「旧安保条約」を結ぶことになり、独立国家として再出発することになりました。
しかし、日本国内では早くも「日本国憲法」の改正が議論されて行くことになります。昭和26(1951)年の「サンフランシスコ講和会議」でアメリカ合衆国は、日本の独立と、植民地の放棄、さらに在日系住民の日本国籍取り消しなど、様々な問題を残したまま、「サンフランシスコ平和条約」を成立させることになりました。

また、内閣総理大臣で講和条約締結全権を担っていた吉田茂氏は、同時に「旧安保条約」を締結するために、アメリカ合衆国との協議も行っておりました。実はこのシリーズの中でも触れたのですが、
アメリカ合衆国側の考え方は、「日本が独立国となれば国家的に防衛もすることができる軍隊を持つことが、大事だ」ということです。しかし、「駐留米軍の定義」変更は、非常に難しいことでした。
これを、解決するうえで重要かつ、難しい問題として残ったのが、沖縄県の扱いです。「サンフランシスコ平和条約」では、沖縄県などの南西諸島を植民地ということで、アメリカ合衆国の委任統治領とするという事が決まっておりました。
そこに、直接軍政を敷いたアメリカ合衆国は、沖縄県を対共産戦略の重要拠点に位置付けて、数多くの在日米軍基地を敷設します。これがのち残る「沖縄基地問題」です。
しかも、日本の防衛を兼ねる形で、在日米軍が、横田などの重要都市にも基地を設けて、防衛するという「日本国憲法」と内容が180度異なる法体系が締結される事態となったわけです。
そこで、アメリカ合衆国は、「旧安保条約」の締結交渉の中に、「日本国憲法」の中で、「日本国に再軍備の方向に進めることができないか」と要請してきたということについても触れましたが、それを内閣総理大臣の吉田茂氏は断ったとい話がありました。これも、「旧安保条約」を結ぶならまだいいが、本格的な再軍備を要求するなら
「日本国憲法」の改正も視野に入れてくださいということを暗示させる会見だったと考えることができます(考えすぎかもしれません)。
少し似ているところが、あるのかもしれませんが、昨年の7月に内閣法制局が「憲法9条の解釈変更」を行った事と似ております。
しかし、それに対して、日本国民の反発強くなっているのは、至極当然のことでした。しかし、日本政府は強硬手段に訴えることになります。

というところですが、次回は「3-3」としまして、「憲法改正」論議の発端となった「血のメーデー」事件と、その水面下で一体何があったのかについて、お話しします。それでは。